昨日の続きという意味を込めて「廃道」のことを書こう。
登山道は「人」が歩くことで保持されるものだ。適度な人数が春から秋まで歩いてくれると道は確実に整備される。だから、わざわざ登山道整備などといって予算化したり、労働力や人集めの必要もないのである。
登山人口が増えている割には、「適度な人数が、その登山道を春から秋まで歩いてくれる」ことが出来ない理由は「登山道の一極集中化」である。岩木山の場合、山頂に立つ登山者は、その97パーセントが「スカイライン・リフト」利用者である。これだと「岩木山の他の登山道」は整備されない。
この「一極集中化」には登山道を廃道化(または荒廃化)させる二面性がある。
一つは、多数の登山者が集中することで、いわゆる「オーバーユース」で道が、植生や地形、地質的に荒廃することである。
もう一つは殆ど、登山者が歩かないので植生の繁茂等によって道が消失、荒廃してしまうことである。
岩木山では松代からの「大ノ平」コースのみならず、鰺ヶ沢スキー場ゲレンデ沿いの「長平」コースも、竹藪に覆われて一部「登山道」が消失状態にある。
登山道の荒廃を登山者の多くは、「地図や案内書に登山道の記載があるのならば、当該自治体、森林管理署、各団体で登山道確保として、最低限の藪の刈り払い程度はしなければならない。」などと主張して、地元の自治体にその責任を求める(使えもしない林道をやたらに造る役所もあることだから、これは正しいかも知れない。)が、まずは、特定の「登山道に集中」している自分たち自身のことを考えるべきだ。
また、登山道とは「登山する者」にとって必要な道であるがゆえに、本来は「登山者」が「歩くこと」で整備するべきものであるだろう。
岩木山の赤倉登山道は赤倉信仰に依拠する講および信者が主体的に関わりながら「整備」して来たという歴史がある。
作今、特定の信者が「過剰な整備」をしたが、信者が自分で自分たちの道を整備したのであり、古来から山に関わる道の整備は「行政とかの第三者」がすべきものではなかった。「当該者」がすべきものなのである。自分たちは何もしないで「あそこは荒れている。」「あそこに標識を建てろ。」などと言うが、虫がよすぎるというものだ。
登山道の荒廃に手助けをしているのは、特定の登山道に「一極集中化」している登山者自身であるとも言える。
私は常々不思議に思う。どうして、みんな同じコースを登りたがるのだろうと。自分の登山道くらい持ってもいいだろう。それとも、全国一律、同顔貌でいる方が安心とでも言うのだろうか。個性を失い、同質化している日本人にあっては、それが一番の幸せなのだろう。
藪になってしまい廃道と化している松代大ノ平登山道については、次のような意見が寄せられている。
「誰もが登れる登山道をめざす必要はない。どうしても登りたい人は現場の状況・条件と自分の力量(体力・技術・経験)を勘案して登ればいい。」
「送り(目印の赤布)」が着いていれば登ることが可能な場合があるので、それを確保するために、毎年確実に送り(目印の赤布)を補填していく程度でいい。」
だが、「送り(目印の赤布)」は基本的に、付けた者が回収すべきものである。この基本的な送りの性質との整合性が問題として残る。
「刈り払われた道や送りなどがなくても登れる人もいるだろうから、何もしないで、自然があるがままに任せるべきだ。自然にとってこの方法がもっとも望ましいことだろう。」
…などである。
登山道は「人」が歩くことで保持されるものだ。適度な人数が春から秋まで歩いてくれると道は確実に整備される。だから、わざわざ登山道整備などといって予算化したり、労働力や人集めの必要もないのである。
登山人口が増えている割には、「適度な人数が、その登山道を春から秋まで歩いてくれる」ことが出来ない理由は「登山道の一極集中化」である。岩木山の場合、山頂に立つ登山者は、その97パーセントが「スカイライン・リフト」利用者である。これだと「岩木山の他の登山道」は整備されない。
この「一極集中化」には登山道を廃道化(または荒廃化)させる二面性がある。
一つは、多数の登山者が集中することで、いわゆる「オーバーユース」で道が、植生や地形、地質的に荒廃することである。
もう一つは殆ど、登山者が歩かないので植生の繁茂等によって道が消失、荒廃してしまうことである。
岩木山では松代からの「大ノ平」コースのみならず、鰺ヶ沢スキー場ゲレンデ沿いの「長平」コースも、竹藪に覆われて一部「登山道」が消失状態にある。
登山道の荒廃を登山者の多くは、「地図や案内書に登山道の記載があるのならば、当該自治体、森林管理署、各団体で登山道確保として、最低限の藪の刈り払い程度はしなければならない。」などと主張して、地元の自治体にその責任を求める(使えもしない林道をやたらに造る役所もあることだから、これは正しいかも知れない。)が、まずは、特定の「登山道に集中」している自分たち自身のことを考えるべきだ。
また、登山道とは「登山する者」にとって必要な道であるがゆえに、本来は「登山者」が「歩くこと」で整備するべきものであるだろう。
岩木山の赤倉登山道は赤倉信仰に依拠する講および信者が主体的に関わりながら「整備」して来たという歴史がある。
作今、特定の信者が「過剰な整備」をしたが、信者が自分で自分たちの道を整備したのであり、古来から山に関わる道の整備は「行政とかの第三者」がすべきものではなかった。「当該者」がすべきものなのである。自分たちは何もしないで「あそこは荒れている。」「あそこに標識を建てろ。」などと言うが、虫がよすぎるというものだ。
登山道の荒廃に手助けをしているのは、特定の登山道に「一極集中化」している登山者自身であるとも言える。
私は常々不思議に思う。どうして、みんな同じコースを登りたがるのだろうと。自分の登山道くらい持ってもいいだろう。それとも、全国一律、同顔貌でいる方が安心とでも言うのだろうか。個性を失い、同質化している日本人にあっては、それが一番の幸せなのだろう。
藪になってしまい廃道と化している松代大ノ平登山道については、次のような意見が寄せられている。
「誰もが登れる登山道をめざす必要はない。どうしても登りたい人は現場の状況・条件と自分の力量(体力・技術・経験)を勘案して登ればいい。」
「送り(目印の赤布)」が着いていれば登ることが可能な場合があるので、それを確保するために、毎年確実に送り(目印の赤布)を補填していく程度でいい。」
だが、「送り(目印の赤布)」は基本的に、付けた者が回収すべきものである。この基本的な送りの性質との整合性が問題として残る。
「刈り払われた道や送りなどがなくても登れる人もいるだろうから、何もしないで、自然があるがままに任せるべきだ。自然にとってこの方法がもっとも望ましいことだろう。」
…などである。