(今日の写真は本文に関係のある焼け止り小屋である。ただ、季節は里の早春である。本文の話しは「真冬」のことだ。写真では、小屋後ろの庇は雪に埋まっているが、前の庇は出ている。この状態から積雪の深さを推理すると、山側では6mほどで谷側「前の庇側」では5mほどになるだろうか。
この日は晴れていた。気温も上がり、登りでは大汗をかいたものだ。この時季は底雪崩が発生する時季である。この焼け止まり小屋を三角形の頂点とする左右の斜面でこれまで数回にわたって大きな底雪崩が発生している。
幸い、スキーヤーや登山者が近づかない時間帯の発生しているので、人命は失われていない。しかし、これはあくまでも「偶然性」に助けられたものである。)
■■(間遠になったが)雪に埋まった焼け止り小屋でのこと(3)■■
(2007-12-30付のブログに続けてお読み下さい。)
Oさんは起き上がろうと、もがいていたがなかなか立てない。そこで、手を貸して引き起こしながら、改めてOさんと対面してよく見た。
ヤッケのフ-ドも被っていないし、目出し帽もつけていない。毛糸の帽子を頭にちょこんと載せているだけである。眼は兎のように赤く、吐く息の酒臭さは私のそれを遥かに圧倒していた。
小屋の中で、Oさんと私が語り始めた…。
「昨夜、スキ-場尾根を来た。遅くなったので夢中になって登っていたら、目標にしていた岳樺の木を見落としてしまったんだ。」
「何時ごろだべ。」
「十時過ぎだど思う。」
「それだば、二回目にあんたを捜しに行って、帰ってきたころだ。ちょうど、そのころ対岸尾根を登っていたんだべな。」
「まだが、まだがと気持ち焦っているうぢに、ブッシュ切れる森林限界まで行ってしまったんだね。」
「どうしても焦れば、降りるよりも、登ってしまうもんだね。」
「慌てて、大沢ばトラバ-スしてぶなの樹林帯まで下山したんだばって、大沢の右岸広いんだ、三十分ほど捜したけど見つからねがった。」
「どうも、私が外さ出て捜したり、大声で呼んだりしていだ時間と三十分ずれあるんだ。それに、積雪の多い時、小屋を山側から捜してもだめだ。昼でも発見が難しいんだ。うまぐいがねものだ。」
「そこで、しょうがねはんで、先生心配してるだろうと思ったけど、コッヒル使ってちょうど一人入るくらいの雪洞作ってビバ-ク。時間がかがった。今日になっていだな。そうなると、妙に落ち着いてきて。持っていだウイスキ-ばちびりちびりやりながら、明るくなるのを待っていだんだ。ほらもう空だね。」
「じゃあ、俺がKさんと絶叫していた時には、ここより上部にいで雪洞掘りの最中だったんだ。それじゃ、聞こえない。あの西風だもの。」
月がこうこうと照っている時の、冬の登山は「明るく」て、それゆえに楽で、快適なものだ。しかし、猛吹雪である。闇に近い中を、ヘッドランプの灯りを頼りにしながらの行動は無謀の一語に尽きるだろう。
その上、簡易な雪洞の中で、多量の飲酒である。医学的には、アルコ-ルは体温を奪うものだそうだ。まったく無茶苦茶なことをしていたわけだ。よくもまあ、「疲労凍死」に至らなかったものである。
服装もさっき見たとおり、かなりお粗末である。まかり間違えば自殺行為となりかねないところである。
Oさんは、たまたま自力で助かった。しかし、これはまぐれである。寝込まなかったことがまぐれを生んだのだ。病的酩酊の私には、何も言えないが、とにかく無事に会えてよかった。最悪のことを考えると、私は胸が熱くなってきた。
その後、Oさんは鼾をかいて眠ってしまった。だからといって登頂を断念したのではない。我々は日曜日の十一時近くに、小屋を出て輪かん登行で山頂を目指したのである。
それから間もなく、Oさんは片足と片手に麻痺をきたし、うまく動かせなくなった。「脳溢血」による麻痺である。多量の飲酒が原因だと本人が言っていた。いつも、動くことが彼の身上であった。それが出来なくなった彼は、ますます酒にのめり込んでいった。
そして、さらに数年後「すい臓炎」で亡くなった。私の上の娘が大学に入った年であった。
臨終の際に、私の顔を見詰めながらとった彼のしぐさには涙があふれた。Oさんは私の娘たちが幼児の時から、よく私のところにやって来ていた。
その都度、おみやげとしてクッキ-、チョコレ-ト、キャンデ-やガムを持って現れるのである。そして、おみやげのない時は、胸のポケットから小銭をつまみ出して、「Sちゃん、Kちゃん、これでチョコレ-トでも買いへ。」と言ってくれるのだった。
死の到来が近づくに従い、意識が混濁してくる中で、「Kさん」はかろうじて動く、左手を胸に運び、唇をかすかに動かしながら、胸にあるはずの「ポケット」から小銭を出すしぐさを懸命にしたのである。それは私たち家族にしてくれたOさんの遺言であった。
Oさんを死に至らせたのは、私だとの思いは強い。これは一生消えることはない。酒や思考形態から心身ともに不健康の度合いから言うと、私の死期は、そんな遠い将来ではない。それもいいと考えている。
早く行って、Oさんにお詫びのひとことを言いたいし、葬式には、因縁から私が弔詞を述べたので、その感想も聞いてみたいのだ。
ただ、再会を祝して、「ウイスキ-で乾杯」などは絶対にしないつもりでいる。
この日は晴れていた。気温も上がり、登りでは大汗をかいたものだ。この時季は底雪崩が発生する時季である。この焼け止まり小屋を三角形の頂点とする左右の斜面でこれまで数回にわたって大きな底雪崩が発生している。
幸い、スキーヤーや登山者が近づかない時間帯の発生しているので、人命は失われていない。しかし、これはあくまでも「偶然性」に助けられたものである。)
■■(間遠になったが)雪に埋まった焼け止り小屋でのこと(3)■■
(2007-12-30付のブログに続けてお読み下さい。)
Oさんは起き上がろうと、もがいていたがなかなか立てない。そこで、手を貸して引き起こしながら、改めてOさんと対面してよく見た。
ヤッケのフ-ドも被っていないし、目出し帽もつけていない。毛糸の帽子を頭にちょこんと載せているだけである。眼は兎のように赤く、吐く息の酒臭さは私のそれを遥かに圧倒していた。
小屋の中で、Oさんと私が語り始めた…。
「昨夜、スキ-場尾根を来た。遅くなったので夢中になって登っていたら、目標にしていた岳樺の木を見落としてしまったんだ。」
「何時ごろだべ。」
「十時過ぎだど思う。」
「それだば、二回目にあんたを捜しに行って、帰ってきたころだ。ちょうど、そのころ対岸尾根を登っていたんだべな。」
「まだが、まだがと気持ち焦っているうぢに、ブッシュ切れる森林限界まで行ってしまったんだね。」
「どうしても焦れば、降りるよりも、登ってしまうもんだね。」
「慌てて、大沢ばトラバ-スしてぶなの樹林帯まで下山したんだばって、大沢の右岸広いんだ、三十分ほど捜したけど見つからねがった。」
「どうも、私が外さ出て捜したり、大声で呼んだりしていだ時間と三十分ずれあるんだ。それに、積雪の多い時、小屋を山側から捜してもだめだ。昼でも発見が難しいんだ。うまぐいがねものだ。」
「そこで、しょうがねはんで、先生心配してるだろうと思ったけど、コッヒル使ってちょうど一人入るくらいの雪洞作ってビバ-ク。時間がかがった。今日になっていだな。そうなると、妙に落ち着いてきて。持っていだウイスキ-ばちびりちびりやりながら、明るくなるのを待っていだんだ。ほらもう空だね。」
「じゃあ、俺がKさんと絶叫していた時には、ここより上部にいで雪洞掘りの最中だったんだ。それじゃ、聞こえない。あの西風だもの。」
月がこうこうと照っている時の、冬の登山は「明るく」て、それゆえに楽で、快適なものだ。しかし、猛吹雪である。闇に近い中を、ヘッドランプの灯りを頼りにしながらの行動は無謀の一語に尽きるだろう。
その上、簡易な雪洞の中で、多量の飲酒である。医学的には、アルコ-ルは体温を奪うものだそうだ。まったく無茶苦茶なことをしていたわけだ。よくもまあ、「疲労凍死」に至らなかったものである。
服装もさっき見たとおり、かなりお粗末である。まかり間違えば自殺行為となりかねないところである。
Oさんは、たまたま自力で助かった。しかし、これはまぐれである。寝込まなかったことがまぐれを生んだのだ。病的酩酊の私には、何も言えないが、とにかく無事に会えてよかった。最悪のことを考えると、私は胸が熱くなってきた。
その後、Oさんは鼾をかいて眠ってしまった。だからといって登頂を断念したのではない。我々は日曜日の十一時近くに、小屋を出て輪かん登行で山頂を目指したのである。
それから間もなく、Oさんは片足と片手に麻痺をきたし、うまく動かせなくなった。「脳溢血」による麻痺である。多量の飲酒が原因だと本人が言っていた。いつも、動くことが彼の身上であった。それが出来なくなった彼は、ますます酒にのめり込んでいった。
そして、さらに数年後「すい臓炎」で亡くなった。私の上の娘が大学に入った年であった。
臨終の際に、私の顔を見詰めながらとった彼のしぐさには涙があふれた。Oさんは私の娘たちが幼児の時から、よく私のところにやって来ていた。
その都度、おみやげとしてクッキ-、チョコレ-ト、キャンデ-やガムを持って現れるのである。そして、おみやげのない時は、胸のポケットから小銭をつまみ出して、「Sちゃん、Kちゃん、これでチョコレ-トでも買いへ。」と言ってくれるのだった。
死の到来が近づくに従い、意識が混濁してくる中で、「Kさん」はかろうじて動く、左手を胸に運び、唇をかすかに動かしながら、胸にあるはずの「ポケット」から小銭を出すしぐさを懸命にしたのである。それは私たち家族にしてくれたOさんの遺言であった。
Oさんを死に至らせたのは、私だとの思いは強い。これは一生消えることはない。酒や思考形態から心身ともに不健康の度合いから言うと、私の死期は、そんな遠い将来ではない。それもいいと考えている。
早く行って、Oさんにお詫びのひとことを言いたいし、葬式には、因縁から私が弔詞を述べたので、その感想も聞いてみたいのだ。
ただ、再会を祝して、「ウイスキ-で乾杯」などは絶対にしないつもりでいる。