岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

懲りない人たち・やりきれない“既視感”このギャップは一体何なのだ(4)

2008-01-06 04:46:21 | Weblog
(今日の写真は昨日のブログで「ブナ林帯の中で、雪崩の形跡がよくある場所は、大長峰の上端、向かって左側に浅い沢が出てきて、それが途切れる右側にある急な斜面である。かなり急で上部のブナ林帯に入るまで、かなり距離もある。新雪が多い時は、そこを登らないで、左の浅くて狭い沢を横切って対岸のブナ林に入るのがベターだろう。」とした場所の斜め前方に見えるブナ林帯である。
 この日も寒かった。ここまで登ってきたらますます視界は悪くなった。視界を遮っているものは濃霧であるが、それは「露水」ではなく、極めて微少な「氷の粒」である。
 枝先や梢に付着しているものは「雪」ではなく、その「氷」の粒が凝固したものだ。まるで「吐き出す」私の息までが瞬時にして「氷の粒」となって空中に浮遊しだしそうな厳寒の世界だった。
 写真の右手上部は殆どブナが生えていない。その上、35度を越える急峻な斜面である。新雪が降り積もっている時は、決して登ってはいけない。
 そのような時には、写真左手下部から斜めに、浅くて小さな沢を渡って対岸尾根の少しブナが疎らな場所に入ってから上部を目指すべきである。この沢ではこれまで一度も雪崩のデブリを見たこともないし、斜面が緩く、しかも上部にはブナの大きな幹が林立していて、地形上雪崩は決して起きない。
 ブナ林だから「視界」が利く。白い世界の中で、灰色を主にした暖色のブナの幹は、私たちの視覚を微妙に刺激する。それが実際以上に「視界」を広げる。廻りに何もない中では、この程度の「濃霧」に巻かれても、それは「ホワイトアウト」に近いものになり、前進不能になってしまうものだ。
 「車社会」が望むような、地表にある具体的な突起物を邪魔者にしてはいけない。「車社会」はひたすら「平坦」を望む。それは「円運動」の宿命ともいえるものだろう。しかし、自然に対しては、この視点は苛酷に過ぎる。)

■■ 懲りない人たち・やりきれない“既視感”このギャップは一体何なのだ(4)■■ 

 雪崩遭難現場は多くの登山者が普段からキャンプする地点だそうだ。現場にある槍平小屋は、73年の雪崩で小屋がつぶれたため、傾斜がなだらかで雪崩の心配が少ない現在地に再建された。以来一度も雪崩被害はなかったという。
 31日も、大勢のパーティーがテントを設営していた。「あんなところで雪崩が起きるなんて」と山岳関係者らは驚いたという。
 そして、ある山岳会のリーダー委員長は「今回のルートは、入門ルートで危険はないはずだった。私がリーダーでもこの場所にテントを設営した」と話し、さらに、地元の民間山岳救助隊の隊員も「まったく予期しない雪崩だった」と話すのである。

 何故に、この人たちの脳裏に「1973年11月20日未明、槍ケ岳に合宿へ向かっていた京都大学山岳部を含んだパーティー22人がテントで就寝中、雪崩に遭い5人が亡くなった」という事実がないのだろうか。
 これらパーティは「雪崩の危険がある場所にテントを張ったこと」に加え、「天候判断の甘さ」を、当時厳しく批判されたのである。その時、批判した者はそれを後世に正しく伝えていたのだろうか。そして、後世である前述の「山岳会のリーダー委員長」や「民間山岳救助隊の隊員」たちはそれを正しく継承していたのだろうか。

山は「人の一生」などという「短いスパン」的な存在ではない。「人の一生」は短く一過性なものである。しかし、その人が暮らす「社会」というものは存亡の危機にありながらも営々と続いてきている。社会が続いていく限り、事象や事故に関わった者は「そのことを、その事実」を記録して後世に伝えていく義務を負うのではないか。それが社会人としての務めでもあるはずだ。これは山岳会などの組織にも言えることである。
 また、現在世代はそのような過去の事実を掘り起こしながら、それから学ばねばならないのである。「あんなところで雪崩が起きるなんて」と驚いた山岳関係者はその努力を怠っていたというべきだろう。先人に学ぶことを軽んじてはいけないし、「登山」に楽しみだけを求めてはいけない。これは大事なことだ。

 「あんなところで雪崩が起きるなんて」と言う登山関係者に対して、「下山決断すべきだった」と専門家たちは言う。ただ、これも結果論的な色彩は免れようがないが、後世に伝えられることもなく、それ故に「それを咀嚼すること」がない現代世代の登山者であれば、現今の情報で判断して「下山」するのが妥当であると私は考えている。
 果たして、雪崩に巻き込まれた二つのパーティーの登山計画や判断は適切だったのだろうか。現場近くには約30度の急斜面があり、それは国土交通省が警告する雪崩が発生しやすい傾斜(30度以上)の下限ギリギリであるという。
 複数の専門家は今回の雪崩を「短期間に降った大雪が、(その前に降って)氷になった雪の上を滑り落ちる典型的な表層雪崩」とし、冬山登山の危険性を指摘している。
 弘前大学の力石国男教授(雪氷気象学)は「地形から推測すると、高い標高で発生した突風が引き金となった雪崩」との見方を示した上で、「大雪警報が発令されていたこと」に触れ「少しでも、不安があれば登山をやめるべきだった」と強調している。
 実際に、31日、長野県側から北アルプス登山に臨んだある者は、「大雪警報の発令」を受け途中で下山した。
 その彼は、大雪の際は 1.谷筋に入らない 2.緩い斜面でも歩いたりテントを張らない 3.降りやんだ後1日は動かないなどを守ると言い、「ドカ雪の時は何が起きるか分からない。表層雪崩が起きやすい時期だけに、リーダーが下山を決断すべきだった」と話している。
私もこの意見と行動判断に賛成である。死んでいった者たちの命を無駄にしてはいけない。現今の登山者たちよ、これから登山者になろうと考えている者たちよ、この「雪崩遭難」の事実を「自分のもの・こと」として厳しく受け止めてほしい。
 ほぼ1ヶ月前の昨年11月23日に、十勝岳連峰・上ホロメットク山で雪崩のため、4人が犠牲になっている。それなのにどうして、同じことを繰り返すのだ。
              ( 注:文中の引用箇所は毎日新聞電子版からのものである。)