岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

3月、弥生尾根を登る / イルミネーションは電気の垂れ流し。だから、「温暖化」は進む(2)

2008-01-11 05:50:46 | Weblog
(…今日の写真も弥生尾根だ。昨日の続きとして読んで頂けるといいと思う。標高1000mを越えてブナがさらに疎らになってきた。雪面の「影」からも解るように「日射し」がかなり強くなってきた。
 スキーのトレールから積雪表面の雪層が解るだろう。ここまで来ると新雪の層が深くなってきたのだ。つまり、「締まって」いない雪が覆っているわけである。その柔らかい雪層の表面が、やわらかい「日射し」を受けて溶け出してきたのである。
 こうなると、スキーの底面に貼り付けてあるシールは、その「起毛」構造から、スポンジ並みに雪面表層の溶けた水分を吸収する。アザラシの毛皮やカモシカの毛皮ももちろん、その構造が「起毛状」である。しかし、それらは体皮から分泌される「脂質」でコーテイングされているので、水分を弾き殆ど「吸水」しないのだ。
 私の背中部分に見えるのは「尻皮」といわれるもので、「臀部」に提げておいて「座る」とちょうどその上に「尻」が載るようになっているものだ。冬山では、直に「雪上」に腰を降ろすことが出来て大変に重宝なものだ。
 これは、「むじな」の毛皮である。別名を「狸(まみ)」ともいい、「アナグマ」のことだ。これも「起毛」構造だが水は吸わない。
ところが、ナイロン製のシールには水を弾く「脂質」がない。その「脂質」を補うために、盛んにワックスを塗っているところだ。
 スキーの裏面に見える「えんじ色」のものがシールだ。これもフランス製だから、日本の山雪には馴染まない「性質」を備えているのだろう。「アザラシ」の皮製から、この手のシールに換えてから、山に来る度に「不満」が募っている。だが、残念なことに「ワシントン条約」で「アザラシ」の捕獲が禁止されて「アザラシ皮」の入手は絶望となった。「動物の保護」のためには、やむを得ないことなので、今は「不満」に胡座(あぐら)をかいている。
そして、思うのだ。昔の人は、自然をよく知って、それとうまく付き合いながら「利用」してきたのだと。この「シール」は元をたずねると「化石燃料」である。石油からナイロンを造り出せなくても、はるかにそれを「超える」ものを、身近な自然から見つけ出して使っていたのである。
 この写真は私が撮したものではない。私は「カメラ」を胸にぶら下げている。撮せるわけがない。昨年から同行し始めたTさんが撮ったものだ。)

■■ もったいない。イルミネーションは電気の垂れ流し。だから、「温暖化」は進む(2) ■■
(承前)
 「クリスマス」と我が家との希薄な関わりについて書いたら長くなってしまった。本題に入ることにする。
 昨年というとずいぶん前というイメージになってしまうので「先月の中旬」と表現を変える。その「先月の中旬」から「クリスマス」当日まで、落ち着かない「夜」が続いた。近くの家で、玄関前の庭に「クリスマスツリー」を「建てた」のである。そして、夕方から朝まで、それはきらびやかに「点滅」を続けるのである。それを見ていると落ち着かないだけではない。無性に腹立たしい思いに駆られるのだ。
 クリスマスツリーには一般的に常緑の針葉樹が使われる。ヨーロッパではドイツトウヒ、日本ではモミが主に使用されるそうだ。冬の間も緑を保つために、強い生命力の象徴とされる常緑樹を使うのである。
 アダムとイヴの話しから、冬に葉が落ちてしまう「リンゴの木」の代用として、常緑樹のモミの木などが「禁断の木の実」を飾るために使用されたのが由来だとも言われている。
 ツリーの先には「ベツレヘムの星 (Star of Bethlehem)」や「クリスマスエンジェルという天使」が飾られる。他にリンゴ(玉)、ロウソク、金や銀のモール、雪として綿などが飾られる。
 ところがである。現今は、この「ロウソク」の代わりに、豆電球の飾りをする家庭が多いのだ。電球の配線は並列で、しかも点滅さえする。点滅だけではなく、それが直線的に、または円を描きながら点滅しながらも、見た目には移動するようにセットされているものが普通になってきているらしい。
 まさに、私を「落ち着かない夜」にさせる「クリスマスツリー」もその類なのである。とにかく、それの点滅と「光」の移動を一晩中続けるのである。
 これは、何という「電気エネルギー」の無駄であろうか。光とその点滅は大半の電気エネルギーを「熱」として消費してしまうのである。寒い夜空に無駄な「熱」を放射しているだけなのだ。
 この無駄な熱エネルギーの放出を出来るだけ抑えようと最近は「LED(Light Emitting Diode:発光ダイオード)」を用いたものも出現した。
この「光を発生する半導体(ダイオード)」は、ロウソク(火)、電球、蛍光灯、に次ぐ第4世代の「明かり」である。とにかく「エネルギー」の消費は電球の4分の1程度だというのだ。だが、いくら少ないといっても、やはり、電気エネルギーの消費であることにはかわりがないのである。
 驚くことに、このLEDの発明は「日本のオリジナル技術」であるということだろう。1996年には「白色ダイオード」が開発され、これによって「表示用」が中心であったLEDは、一般照明用として開発が進むことになったといわれている。
現在では、携帯電話・デジタルビデオカメラ・電子機器のバックライト、大型ディスプレイ、道路表示器、交通信号灯など多くの機器類に使われている。

 我が家の近くの「夜な夜な点滅」を続ける「クリスマスツリー」は時期が来ると撤去されるので、我慢が出来る。しかし、「無駄な熱放出機」と化した「イルミネーション」は冬の間、静的な明かりを灯し、点滅を繰り返し続けるのである。
 去年辺りから盛んに、イルミネーションにも、『無駄に電気エネルギーを消費しないために「LED」のものを使用しています』と、その管理人が、あたかも「地球温暖化防止」に協力しているという得意顔で言っている場面に出くわすことが多くなってきた。
 しかしだ。今私たちに求められているのは、生活に必要な最少の電気エネルギーの消費に抑えることだろう。夜な夜な街並みを照らす「イルミネーション」がなくても、一向に私たちの生活は困らないのである。
 弘前市内にも「イルミネーション」がある。それは「市役所」界隈の街路樹に設置されたものである。あれはまさに無駄な「熱放出木」である。
 それに、古色蒼然としたたたずまいを見せるお城の周囲、追手門など近くというのは、明らかに場違い感は否めないだろう。静寂な旧い史跡には、明るく点滅を繰り返す「灯り」は不要だろう。ミスマッチも甚だしいと思うのだがどうだろう。
 それから、あのイルミネーションの配線で「ぐるぐる巻き」にされて、夜な夜な照らされ続ける樹木のことも考えてみようではないか。冬場、落葉樹は「休眠」をしているのだ。そっとして「休眠」をさせてあげようではないか。
 樹木と人との関わりを考える時、やはり、イルミネーションという明るく華美な衣装は「飾り」過ぎである。