岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

年末・年始寒波による悪天…懲りない人たち・やりきれない“既視感”(2)

2008-01-04 07:04:41 | Weblog
(今日の写真は「岳登山道尾根」標高1100m付近のブナ林である。右手前の幹の太さは直径が40cmほどである。めずらしく、さっきまで、ほぼ「無風」の中、ひっきりなしに雪が降っていた。視界もせいぜい10m前後だったろうか。突然、濃霧が消えて視界が広がった。晴れてはいない。青空も見えない。ただし、頭上は高く明るい曇り空である。しかも、山側上部は依然として、厚く濃い灰色の「雲」に覆われている。これだと、これからの登りも「視界」が利く中で行われることは期待できない。
 この写真は何を教えてくれるだろうか。
 一つはブナに着いた雪の状態から…昨晩から先ほどまで降雪の多さと長い時間風が殆どなかったことを教えてくれる。「新雪」の多さを視覚的に教えてくれるのである。地形にそった形での雪の「吹き溜まり」も教えてくれるのである。
 冬山・雪山登山では、ひとときも「雪崩」のことを念頭から「消去」してはいけない。つねに「雪崩」の二字を思考や行動の中で先行させねばならない。「視覚」はもちろん、「聴覚」さらに、スキーやワカンによる「触覚」を敏感に働かせねばならないのだ。
 もう一つはブナの幹や枝から…「雪」特に「圧雪」に虐げながらも、それに耐えて生育してきたその「ブナ」一本一本の「苦難」の「生きざま」を教えてくれるのだ。一般的に「ブナ」は標高600m辺りから1000mぐらいに生えるとされているが、岩木山では標高が高くなるにつれて矮性化するらしく「低木」になる。焼け止り小屋上部では、標高1300m辺りでも、ダケカンバに混じって「低木」のブナが見られる。
 この日の「新雪」は多かった。斜面がきつくなると腰まで埋まった。このような状態では、どんな小さな沢でも決して入り込んではいけない。両岸からの「雪庇」の崩落でも、簡単に雪崩となり巻き込まれてしまうものだ。私が巻き込まれた2回目の雪崩は、まさにそのような雪の状態とそのような場所でのものだった。)

■■年末・年始寒波による悪天…懲りない人たち・やりきれない“既視感”(2)■■
(承前)
 「既視感」とはあまり聞きなれないし、見慣れない言葉だ。これは[フランス語]デジャ‐ビュ【deja vu】の訳語であるらしい。岩波の広辞苑的に訳すと「それまでに一度も経験したことがないのに、かつて経験したことがあるように感ずること。既視体験。」となるらしい。

 次は毎日新聞京都支局の榊原雅晴記者のレポート要約である。
『1973年11月20日未明、槍ケ岳に合宿へ向かっていた山岳部のパーティー22人がテントで就寝中、雪崩に遭い5人が亡くなった。当時も厳しい冬型の気圧配置で、胸までのラッセル。目的地点にたどり着けず、今回の事故の現場となった槍平小屋から数百メートル進んだ所で4張りのテントを設営した。
 午前零時35分ごろ、「ザザーッ」という音と共に新雪雪崩が襲った。テントは数10cm~1m余りの雪に埋もれた。寝袋に入っていた私は全身が圧迫され、身動きが取れなくなった。
 たまたま横向きに寝ていた私は、顔の前に空間があり、呼吸ができた。しかし、「あお向けに寝ていた友人はテントの布で顔を覆われ、身動きもならずに窒息死」した。埋もれ方が浅かったテントから先に脱出した仲間が、残りのテント上の雪を掘り、数十分後に何とか体を動かせるようになり、「ナイフでテントを切り裂いて脱出」した。
 テントごと流されてしまうような大規模な雪崩ではなかった。それでも、大半のメンバーが動けなくなった。私たちは「雪崩の危険がある場所にテントを張ったこと」に加え、「天候判断の甘さ」を厳しく批判された。』

  上記のレポートから「1日午前0時15分ごろに、テントで就寝中にアルプスの槍ケ岳槍平小屋付近で雪崩が発生して登山者4人が亡くなった」ことに関して、解ることを簡単に検証しよう。

第一に、テント場に選定した「場所」で雪崩が発生して死亡者が既に出ていたこと。
第二に、新雪が多く、「目的地」まで行けず、「ビバーク」状態でのテント設営と宿泊であったこと。
第三に、雪崩による「圧雪」と通気性に欠ける「テント」布地による「圧力」、それに「寝袋」による「重圧」に押し込まれ、閉じこめられたこと。
第四に、「寝袋」に入っている時の「口」の位置が非常に重要であるということ。
第五に、「ナイフ」の所持とその活用が重要であること。「巻き込まれた人たちは気を失う寸前まで必死に雪からの脱出を試み、顔を覆うテントを歯で食い破った」という記事も見える。「ナイフ」を持っていたのか、使えなかったのか。

 他にもあるだろうが、今、私が挙げるとすればこの5点である。これらについて「1日午前0時15分ごろ」に雪崩に遭った人たちは、どの程度理解し、それなりの準備をしていたのであろうか。
 34年も前のことだからといって「忘却の彼方」に置いておくことは許されないだろう。登山行為をする人が代わっても、自然のあり方というものはそれほど頻繁に「変化」はしない。だからこそ、「かつて」の体験や経験から学んでいかねばならない。
 そのためには「現行為者」は、常に記録をとり、書きとどめて、または実体験的に「後世」に伝えていかねばならないのだ。私の「岩木山雪崩発生地図」の発行目的も、実はここにある。
 現に、登山をしようとする者は真摯にそのことを受け止めて、実行為の中でそれを具現・具体化出来るようにしておかねばならない。11月23日十勝岳連峰・上ホロメットク山で起きた雪崩遭難事故から、彼らは何を学んだのだろう。

 また、マスコミにあっても事件を伝えるという一過性のパターンでなはなく、しつこいと言われるぐらいに、毎年その時季になる前に、事前の情報や学ぶべき事柄を「伝える」べきである。みんながそのことを守って「雪崩遭難」がなくなると、記事がなくなるので「困る」と言うのではあるまい。冗談ではないのだ。

 最後にもう一度記者のレポートからの引用を載せる。

『今回の遭難場所は山小屋にも近く、雪崩には比較的安全性が高いと考えられていた。しかし、年末年始に天候が悪化することは分かっていた。そんな状況で、雪崩の危険にどれほどの切実感を持ってテント地を選定したのだろうか。その判断を十分に検証していく必要があるだろう。』
 これは、登山者、マスコミ双方に対する「既視感と自責」からの警告に他ならない。