岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

一昨日、Tさんと赤倉尾根を登る(2)

2008-01-14 05:57:32 | Weblog
(今日の写真は赤倉尾根の「伯母石」にしようと考えたが、私のファイルには入っていなかった。ファイルから簡単に取り出せるものに、赤倉尾根(稜線)上の「雪庇」の写真があったのでそれを掲載しよう。
 何故、「雪庇」の写真なのかというと、これと同じような「雪庇」に一昨日、行く手を阻まれたからである。
 朝8時に最下部の赤倉神社社屋前を出発したと、昨日のブログに書いた。「伯母石」に到着したのが11時である。3時間もかかっているわけだ。
 Tさんと私が担当して交代するラッセルの「距離と時間」は2:1ぐらいだと、以前書いた気がする。しかし、一昨日は出来るだけ「距離」だけでもフィフティフィフティにしようと考えて行動した。それが結果的に時間がかかることになったのかも知れない。また、実際私が半分は「ラッセル」をしたとは言い切れない。あくまでも「半分はする」とは「気持ち」だけのことであったと思う。
 時間がかかった最大で「確実」な理由は「少雪による低木と藪」にスキーを捕られて動けなかったことである。
 ブナ林の斜面を大きくジグザグに登る。夏場は余り斜度が気にならないところだが、スキー登高ではかなりきつい。ブナの立木が「斜度」のきつさを視覚的に「麻痺」させるのである。
 ようやく、稜線上に出た。猛烈な吹雪である。まともに北から吹きつける。ということは私たちを右斜め横から烈風が苛むということになる。私は頬の隠れる「高所帽」を被っていたので、右頬に冷たい痛みを感じなかったが、Tさんは毛糸の帽子を頭に載せているだけなので、「頬」は無防備状態だ。「痛い」といって「目出し帽」に換えた。
 この「目出し帽」、字のごとく、目だけが出るもので、「人相」の90%は隠すことが出来る。だから、強盗がよく使用する。これに「ゴーグル」でもつけようものなら、「人相」は100%分からなくなる。
 そこからも、「低木と藪」に悩ませられた。少しでも「体力温存」しなければいけないと考えて、稜線の左岸、ブナ林の縁を進む。間もなく「伯母石」だと思うのだが、なかなか見えてこない。この「少雪」だと、確実に黒い岩肌を出しているはずである。まだか、まだかと、念じながら登って行く。長い長い時間が経過をしたように思った時、突然、左手に「伯母石」が姿を現した。
 「伯母石」に着いた。11時だった。ため息が出た。遅い。直ぐに左によって岩稜帯を仰いだ。雪庇が張り出して、その一部が崩れている。下部にブナ林があるので、それによって「止められた」状態で、そのデブリは停止していた。その状態に「衝撃」を与えながら、そこを登ることは出来ない。命取りだ。Tさんに声をかけて、その状態を確認して貰う。Tさんは早速カメラを出して撮影である。
 その日は、この「岩稜帯」を登って上に行くつもりいた。(夏場はここを通行してはいけない。)しかし、断念する。岩稜帯を右に巻いて進むことにした。その前に、小休止だ。私はスキーを外した。「足」をいくらかでも「解放」してあげたい気分になっていた。
 5分後、スキーを履き直して出発だ。登ってくる途中、スキーから伝わって「弱層」の触感を何度も体験していた。15mほど進んだところで、また「弱層」の感覚だ。
 コメツガに降り積もった雪が風に吹き落とされる。そして、それは「砂」のように流れ、私たちのスキーを跨いで滑り落ちていく。また、「弱層」の触感だ。右側は赤倉沢に落ち込む急斜面だ。木々が疎らで深い。この斜面だと雪崩に巻き込まれても「死ぬ」ことはないだろう。しかし、それから「脱出」することは至難のわざだ。避けよう。
 先を行くTさんに「これ以上進むのは止めよう。一旦、伯母石まで引き返そう」と告げた。スキーのトップを返して、私が先頭で「静かに」戻って来た。
 だが、どうしても「ここで」登高を断念することは出来ないと考えた。スキーを外し、「伯母石」の前にデポをして、時間も「昼食」に適っていたので食事だ。風を避けるために「出来るだけ穴を深く掘って」そこに入るようにした。
 20分後、私たちは「ワカン」を着けていた。雪崩を避けるには、どうしても「岩稜帯」に取りつくしかないのだ。
 右に少し回り込んでから、「岩稜帯」にある雪庇の反対側に出るように登り始めた。風が吹き曝す場所なので「雪」は硬いが、コメツガやアカミノイヌツゲを下に敷いた「雪層」は薄く、まるで落とし穴だ。
 さらに、岩と岩の間の溝も薄い「雪層」で覆われている。これも立派な「落とし穴」である。
 コメツガなどの落とし穴は、枝などに掴まりさえすれば這い上がってくることは可能だ。しかし、垂直に立っている岩の溝に落ち込んだら、自力で這い上がることは不可能だ。とにかく、これらはすべて、「雪が少ない」ことが作り出す「危険」なのである。
 やっとの思いで稜線に立った。向かう方向には雪庇が林立している。黒々とせめぎ合う岩々がその鋭角の頭を僅かに出しているものもあれば、その下に巨大で深い穴を持って、上部の空間に、薄い「雪層」を載せて待ちかまえているものもある。
 その日のような少ない積雪を予想していなかったので、私は「ザイル」を持っていなかった。ザイルを持っていれば「アンザイレン(ザイルでつなぎ合って行動すること)」しながら行動出来るのになあ、と考えながら、20年前に「氷河のクレバスに落ち込まないように気をつけながら」歩いたパミール7500m峰登山のことを思い出していた。
 とにかく、この場所も、私たちの「装備と準備」では、これ以上進むことは危険であった。
 それにしても、雪の少ない時の、この「岩稜帯」が作り出している「雪庇」を含めた「景観」はすごいものだった。
 私は雪が積もり、雪が張り付き、岩稜の凹凸や突起をすべて覆い隠してしまう景観を見慣れていた。それは、雪庇の張り出し方に「鋭さ」を持ってはいるが、それ以外はすべて丸みを帯びて「凡庸」なものであった。だが、私にとっても初めて目にする、この日の「岩稜帯」は、すばらしい上に、もの凄い「奇観」であった。
 Tさんは盛んに写真に撮っていたので、そのうちに掲載出来るだろう。
 何回も書くが、スキーで登ることもままならない「積雪状態」なので、私たちは「ワカン」を着けたまま、「スキー」を引きずって下山した。スキーのトップには紐を通すくらいの穴をあけてあるので、それに細いシュリンゲを差し込んで引きずるのである。
 だが、Tさんは「スキー」にこだわった。当然のことだ。「スキー」で来たということは帰りに「滑って下りる」という楽しみがあるからだ。第3番石仏辺りから、スキーに履きかえた。私もそれに倣った。
 もの凄く疲れた。だが、何だがとても「意味のある山行」をしたような気がして、満足だった。Tさん今回の山行も、同行してくれてありがとう。)
                         ◎この稿は今日で終わる◎