(今日の写真は1月3日にTさんが撮影した弥生登山道3合目の標柱である。夏道だとこの標柱の手前を左に曲がって登ってくることになるので、登山者からは「真っ正面」に見ることになる。明日は「夏場のこの標柱」を掲載するので、その位置関係を比較してほしいものだ。
Tさんはこの標柱より少しだけ「上部」にいて撮影したようだ。だから、見えている「弥生」という文字は左に「うつむき」加減なのだ。
2005年10月に、この標柱は設置された。その年の8月に岩木町・岩木山パトロール隊・岩木山を考える会・弥生地区住民・建設敷設業者の五者で岳登山道、百沢登山道、弥生登山道に関わる標識設置をともなう整備についての事前合同調査を行い、それに基づいた整備の一環として新しく設置したのである。
それまでの古い標識「3合目と4合目の間に一基だけ記念として残置してある」は、数十年前に設置されたものだが、材質がよく、かなり肉厚な板(ヒバ材)なのでまだ十分その役目を担っていたが、それは極めて一部であり、大半は落下し朽ち果てていた。
しかも、形状が「横長」なので「積雪に圧されて折れたり落下したりすること」が多かったのである。そこで、新しい標柱は「縦型」にし「丸太」にした。これは積雪に圧されて壊されないことを考慮してのことである。また、高いほど上部の雪による「圧力」を受ける面積が広くなり、下方に曲がるので、岳や百沢登山道に設置したものより低い1.5m高程度の柱にしてある。表記文字は「彫り字」であり、それに黒色を印してある。建柱する位置と場所は、私が指導した。
また、建設敷設業者は非常に丁寧で「自然を壊さない」ことに注意しながら作業をしてくれたことが、周囲の自然(植生)を見るとよく解るのである。たとえば、根曲がり竹(チシマザサ)まで伐採しないようにして建てられているのだ。
さて、この標柱は1.5mである。それから「積雪」を推定してほしい。さらに、標柱の上に載っている「雪」にも注目しよう。ずばり、積雪は1mだ。帽子のように載っかっている「雪」は厚さが25~30cm程度だろうか。これが新雪である。これから「穏やかで風の殆ど吹かない年末から新年にかけての天気」と、この間に「この程度の積雪があった」ということが解るのである。
この辺りは1週間も前は積雪が70cm程度であったのだ。そして、25~30cm下層には確実に、雪崩を引き起こす「弱層」があるのである。
このような雪質の時には早めに下山するのが最善の策である。Tさんは13時、5合目辺りで引き返してきたというから「賢明」な行動であったと言える。
普通の「冬」ならば、左に見える腰の曲がったミズナラの「腰」も雪に埋没し、それから伸び上がった真っ直ぐな「幹」が、直上する1本の大木、ミズナラを演出するのだが、今季は、ぶざまにも「ひん曲がった」腰を曝し続けるのだろうか。)
■■ 雪崩や落石は無機質な物質であり、重力の作用で物理的に移動したに過ぎない ■■
毎日新聞電子版に書いているA、B記者の記事の中に『午前零時35分ごろ、「ザザーッ」という音と共に新雪雪崩が襲った。』『今回の雪崩は西側から二つのテントを襲ったとみられる。』という表現があった。
他紙を見ていないが「雪崩が襲う」とか「雪崩に襲われた」という表現は、今や極めて「一般的」なのであろうか。
私は、この表現にすごく違和感を持つのである。「雪崩」同様に扱われるものに「落石」がある。『下山途中落石に襲われて、大ケガをした』とか『登攀(とうはん)中に落石が襲い、胸を強打し、宙づりのまま死亡』などと表現される。
無機質でない「動物」も「…に襲われた」と表現されることがある。「クマ」の場合を考えてみよう。
「クマに襲われた」、これだって結果的事実としては表現出来るのだが、厳密に表現すると『人が竹の子を採るためにクマの採餌場所である竹藪を「襲った」がために、クマはそれを守るために「戦った」のだ』となるだろう。人が最初に襲うという行動をして、それが引き金になって「クマ」に襲われる羽目になったのである。
雪崩は動物だろうか。意志や思考を持つ生物だろうか。いや違う。それは無機質の物質である。その物質が「重力」によって、ただ斜面を移動しただけのものである。
落石も同じである。「重力」によって「落下」しただけのことである。そこには意志はない。それらは「物理的な運動物体」に過ぎない。
なのになぜ「擬人化」した表現にするのだろうか。襲うとは「意志的」な行為である。意志を持った「人」とか「他の生物」に見られる行動である。
「雪崩が襲う」という表現では、かえって人の愚かさ加減が際だってくるし、事実を客観的に見れない弱点がもろに出てくるように思えるのだ。
意志がないからいつ、雪崩になるかは予測がつかない。発生する場所は物理的類推が可能だが、何時発生するかは予測不能だ。近づかないに限る。発生してしまっては、まず「避けよう」がない。この「避けようがない」ことをして「登山者」を「弱者」に仕立て、雪崩を「強者」として「襲う者」というのだろうか。
雪崩を凶暴な悪者に仕立て上げて「登山者」を襲わせれば、そこには弱者としての善者である「登山者」という図式が描かれるはずだ。記者たちや世間一般の目はそのように描きたいのではないのか。(この稿は続く)
Tさんはこの標柱より少しだけ「上部」にいて撮影したようだ。だから、見えている「弥生」という文字は左に「うつむき」加減なのだ。
2005年10月に、この標柱は設置された。その年の8月に岩木町・岩木山パトロール隊・岩木山を考える会・弥生地区住民・建設敷設業者の五者で岳登山道、百沢登山道、弥生登山道に関わる標識設置をともなう整備についての事前合同調査を行い、それに基づいた整備の一環として新しく設置したのである。
それまでの古い標識「3合目と4合目の間に一基だけ記念として残置してある」は、数十年前に設置されたものだが、材質がよく、かなり肉厚な板(ヒバ材)なのでまだ十分その役目を担っていたが、それは極めて一部であり、大半は落下し朽ち果てていた。
しかも、形状が「横長」なので「積雪に圧されて折れたり落下したりすること」が多かったのである。そこで、新しい標柱は「縦型」にし「丸太」にした。これは積雪に圧されて壊されないことを考慮してのことである。また、高いほど上部の雪による「圧力」を受ける面積が広くなり、下方に曲がるので、岳や百沢登山道に設置したものより低い1.5m高程度の柱にしてある。表記文字は「彫り字」であり、それに黒色を印してある。建柱する位置と場所は、私が指導した。
また、建設敷設業者は非常に丁寧で「自然を壊さない」ことに注意しながら作業をしてくれたことが、周囲の自然(植生)を見るとよく解るのである。たとえば、根曲がり竹(チシマザサ)まで伐採しないようにして建てられているのだ。
さて、この標柱は1.5mである。それから「積雪」を推定してほしい。さらに、標柱の上に載っている「雪」にも注目しよう。ずばり、積雪は1mだ。帽子のように載っかっている「雪」は厚さが25~30cm程度だろうか。これが新雪である。これから「穏やかで風の殆ど吹かない年末から新年にかけての天気」と、この間に「この程度の積雪があった」ということが解るのである。
この辺りは1週間も前は積雪が70cm程度であったのだ。そして、25~30cm下層には確実に、雪崩を引き起こす「弱層」があるのである。
このような雪質の時には早めに下山するのが最善の策である。Tさんは13時、5合目辺りで引き返してきたというから「賢明」な行動であったと言える。
普通の「冬」ならば、左に見える腰の曲がったミズナラの「腰」も雪に埋没し、それから伸び上がった真っ直ぐな「幹」が、直上する1本の大木、ミズナラを演出するのだが、今季は、ぶざまにも「ひん曲がった」腰を曝し続けるのだろうか。)
■■ 雪崩や落石は無機質な物質であり、重力の作用で物理的に移動したに過ぎない ■■
毎日新聞電子版に書いているA、B記者の記事の中に『午前零時35分ごろ、「ザザーッ」という音と共に新雪雪崩が襲った。』『今回の雪崩は西側から二つのテントを襲ったとみられる。』という表現があった。
他紙を見ていないが「雪崩が襲う」とか「雪崩に襲われた」という表現は、今や極めて「一般的」なのであろうか。
私は、この表現にすごく違和感を持つのである。「雪崩」同様に扱われるものに「落石」がある。『下山途中落石に襲われて、大ケガをした』とか『登攀(とうはん)中に落石が襲い、胸を強打し、宙づりのまま死亡』などと表現される。
無機質でない「動物」も「…に襲われた」と表現されることがある。「クマ」の場合を考えてみよう。
「クマに襲われた」、これだって結果的事実としては表現出来るのだが、厳密に表現すると『人が竹の子を採るためにクマの採餌場所である竹藪を「襲った」がために、クマはそれを守るために「戦った」のだ』となるだろう。人が最初に襲うという行動をして、それが引き金になって「クマ」に襲われる羽目になったのである。
雪崩は動物だろうか。意志や思考を持つ生物だろうか。いや違う。それは無機質の物質である。その物質が「重力」によって、ただ斜面を移動しただけのものである。
落石も同じである。「重力」によって「落下」しただけのことである。そこには意志はない。それらは「物理的な運動物体」に過ぎない。
なのになぜ「擬人化」した表現にするのだろうか。襲うとは「意志的」な行為である。意志を持った「人」とか「他の生物」に見られる行動である。
「雪崩が襲う」という表現では、かえって人の愚かさ加減が際だってくるし、事実を客観的に見れない弱点がもろに出てくるように思えるのだ。
意志がないからいつ、雪崩になるかは予測がつかない。発生する場所は物理的類推が可能だが、何時発生するかは予測不能だ。近づかないに限る。発生してしまっては、まず「避けよう」がない。この「避けようがない」ことをして「登山者」を「弱者」に仕立て、雪崩を「強者」として「襲う者」というのだろうか。
雪崩を凶暴な悪者に仕立て上げて「登山者」を襲わせれば、そこには弱者としての善者である「登山者」という図式が描かれるはずだ。記者たちや世間一般の目はそのように描きたいのではないのか。(この稿は続く)