岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

凍てつくブナ林帯を行く。弥生登山道尾根ブナ林帯上部 / お正月とは…

2008-01-09 04:55:05 | Weblog
(…今日の写真も弥生尾根、ブナ林帯上部の低木ブナ疎林である。今後も何回か冬のブナ林の写真を載せたいと考えている。
 このブナたちは、幹が非常に細く見えるだろう。実際、細いのだが、これは根株から5、6m上の部分を見ているからである。夏場はもっと高く、幹も太い。視点が5、6m低くなるような位置で見ることになるからだ。つまり、ここの積雪は普通に5、6m以上となる。
 多い年はさらにプラス2mほどになることもある。私はほぼ毎年その調査をしている。そのためには「定点」となる「樹木」を決めておく。夏場にある目印までの高さを測っておいて、それを基準に何m高いから、何m低いから…積雪は何mというふうにしている。
 それから、積雪の多さ、少なさの目安にするものに、ブナの枝に残された「ウサギ」の採餌跡である。
 積雪期の「ウサギ」は樹木の「樹皮」を食べる。「ササ」が出ている場所では「ササ」の葉や竹そのものを食べる。そして、その「ササヤブ」が雪に覆われてしまうと、今度は積雪上に出ている木の枝の皮を食べるのである。
 標高の高いところを生息地にしている「ウサギ」にとって、低木がその梢まで「埋没」させてしまうような「多雪」の冬は大変だ。
 「餌」になる木の皮がなくなってしまうからだ。そんな時は低いところに移動するのだが、低いところもやはり、雪に覆われる場所が多くなるので、そこを縄張りとしている「ウサギ」との熾烈な生き残りが繰り広げられるのだ。
 その「生き残り」をかけた「採餌痕」が、この日の登山でも、私の頭上2、3mのところの枝々に多数見られたのである。
 親指ほどの太さの枝が、長さを20cmほどにして、まるで「リンゴ」の皮を剥いたように丸くはぎ取られているのだ。これではその枝の先には栄養がいかないので、この枝の先は枯れてしまうわけである。

 …この日は本当に静かだった。そして、寒かった。凍結する世界。凍てつくブナ林、霧氷樹林である。
 スキーを運ぶ音。圧雪する時に軋む音。ストックを突き刺す時にかすかに奏でる雪との摩擦音。それら以外、耳を打つものはない。もちろん鳥の声も聞かれない。風が梢を震わせて走る音もない。動いている者は私だけである。動きのない静寂。不気味な沈静と静寂である。生きもののいない世界。
…ふと思った。これは「死」の世界ではないのか。私は「死に神」に誘われて上部を、そして、山頂を目指しているのではないのか。だが、何だか足と手は勝手に動き、ストックを突かせ、スキーを運ばせて、進むのである。
 一人で山登りをしているとよくこのような気分になることがある。特に冬山では、このような気分になることが多い。きっと、他人に邪魔されることがないので、他人は別に邪魔する意志はないのだが、それだけ自然との同化が緊密になるのであろうか。
 私はこのような気分が好きである。こんな時は別に、「自分を見ている時」でもある。人生の中で「自分を見つめ直す」には「一人になること」が必要であろう。

 その静寂と不動、死の世界に、急峻な動きが走った。それは、白い塊。実は数m先に「ウサギ」がいたのである。
 住み処としている「ブナ」の脇の雪穴から出たばかりで、接近してくる私に気がつかなかったようだ。気づいたが、「雪穴」に潜り込む余裕がなかったのだろう。いや、雪穴に潜り込むことは逃げ場を失うことだ。危険だ。
 …となれば、脚力と跳躍力を利用して逃げるが勝ちである。まさに、「脱兎」であった。私の前から、斜め上方に消えて行った。
 それは「死の世界」に「命と動き」が復活した瞬間だった。私はようやく動きを止めて、一息入れた。)

    ■■ お正月から「神さま」と「神さまへの畏敬と感謝」が消えた ■■
      (日本人の文化的な支柱、魂が抜け落ちてしまっている)

 正月三が日が終わったので、床屋に行った。例年、正月前に床屋に行っていた。実は、年末に行って正月を迎えようと考えていたのだが、『正月を前にして大勢の人が行くだろう。混み合うのに、「無職」で暇な私が行ってはただの「お邪魔虫」だ』と思い、この日にしたのである。
 もちろん、年末に済ませた人が殆どだから、1月4日は空いているとの考えもあって、4日の朝一番、8時に床屋に行ったのだ。
 ところが、驚いた。満員。3台ある理髪・理容台はすべて使用中であり、待っている人が4、5人もいたのである。
 私は頭がクラクラした。時代がすっかり変わってしまい、異次元の世界にいるような気持ちになった。
 何だこれは。最近は年末に「髪を整えて新年を迎える」ということはなくなったのか。それとも、偶然が重なってこんなに「混み合って」いるのか…。
 ドアを開けて、「新年の挨拶」を短く交わしてから、「後で来ますけど、何時頃いいですか」と訊いた。答えは午後の2時だという。
 …午後2時から私の「床屋さん」が始まったが、隣の「理容台」にも1人の客がいた。

 髪を鋏でチョキチョキやりながら主人が言う…。
 
「数年前までは、12月の29、30、31日にお客さんが集中したものですよ。」
「そうでしたよね。」
「最近は決まったお客さんが来てくれる程度です。しかも、それなりの年配の方々だけですね。ですから、年末のお客さんは少ないですよ。」
「そうですか。ずいぶんと変わったものですね。どうしてでしょうか。」
「昔は、身だしなみを整えてお正月を迎えるということが当たり前だったのですよ。整髪やひげ剃りをすることも身だしなみを整えることの一部だったのですね。いはば、それが、礼儀だったのですね。」
「どのような理由で、そのようにしたのでしょうか。」
「私のところは今でもやりますが、正月前には神棚を清め、仏壇も清掃して浄め、玄関には注連飾りを着けます。」
「私もそれは、年末にやりましたよ。」
「お正月は八百万の神が各家庭にやって来るんです。また、ご先祖さまの御霊も戻って来られるのだと、私の父はよく言っていました。」
「そうですね。それが日本人の共通するお正月観ではないでしょうか。」
「ところが、最近の人にはそのような考えがないのですよ。」
「つまり、身なりを整えて、神さまや仏様を迎えるという気持ちがないということですか。」
「そうでしょうね。神さまや仏様を拝んで感謝するという気持ちがないんですね。」
「それにしては、特に若い人たちはよく、初詣と称して神社に出かけますよね。迎えないから出向くのでしょうか。」
「いや、あれはブームでしょう。業者とかマスコミとかに踊らさられているんですよ。仏教徒であり、キリスト教徒でもないのに、クリスマスといって興じるあれと同じでしょう。」
「何だかさびしい話しですね。それはそれとして、今日はどうしてこんなに混み合っていたんですか。」
「明日から仕事始めの職場が多いからですよ。神さまや仏様よりも職場における身だしなみの方が大事なんですね。」
「そうなんですか…。」

 私はすごくさびしい気分になった。何だか、日本を離れた遠い「異国」にいるような気分が続いた。何も、「理髪店」の客の変動や変質だけではない。日本人が古来から育んできた伝統的な文化がすべて、これと似たり寄ったりの状態にあるのだ。
もう一度言おう。「正月は神さまを迎え、神さまへ畏敬と感謝をする時」なのだと。