(今日の写真は12日に登った赤倉尾根「伯母石(おばいし)」上部、つまり「岩稜」に出来た「雪庇」である。右に見えるのは石柱と石仏である。この石仏を拝むための道は、岩稜左岸の登山道から左折して続いている。もちろん、先人たちは、拝んだら引き返していたのである。だが、最近、岩稜右岸から、この石仏の場所まで登り、そこを通過して上部に行く者が、あとを絶たない。この「ルート」は「違法に付け替えられたもの」であるから、通行すべきではない。この違法ルートを登るということは、ご神体である「伯母石さま」を足蹴りにし、踏みつける行為でもある。きっと、罰があたる。
この写真は一緒に出かけたTさんが写したものだ。)
今日はこの「伯母石」のことと、その上部にのしかかるように連なっている「岩稜」について書こう。
岩木山の各登山道沿いには「大岩」がある。百沢、弥生、長平登山道のものは、「姥石(うばいし)」と呼ばれ、巨石信仰の具体的な信仰対象として祀られている。
岳登山道沿いにはないが、この登山道は新しいものであって、旧いものは「湯ノ沢」を遡行するものだから、途中多くの「大岩」と出会える。だから、この「旧い」登山道では当然、名称は定かではないが「姥石」などと呼ばれた「大岩」信仰があったと考えられる。 ところで、名称についてだが、他の登山道では「姥石」と呼ばれるのに、赤倉登山道のそれは「伯母石」なのである。「姥」は「老女」のことである。百沢登山道では、その昔「女人」は標高668mの「姥石」までしか登山が許されなかった。いわゆる「女人禁制」である。弥生登山道の「姥石」は他の「姥石」のある位置より標高が高く、大体1100mほどのところにある。長平登山道では標高620mほどのところにあり、これは小振りだ。
「姥石」という地名は全国的に多くあるようだ。
宮城県伊具郡丸森町のものは「姥石」と表記して「おばいし」と呼ばれている。
その謂われは「昔、村の若者が草刈に行き、藤の花に見とれているうちに鎌を水中に落とした。覗いてみると、鎌は大石のそばの水底に見えるので、飛び込んだのだが、若者はそのまま帰らなかった。月日が経つこと数百年、あるときこの若者の家に一人の老人が現れて今までの出来事を語ったのだが、それは、大石の奥にあった細道から水宮玉楼に行き、乙姫ならぬ美女と夢のような生活をしてきたと話したという。」である。
富山県宇奈月町にあるものは「うばいし」と呼ばれている。その謂われは「若狭国小浜のトウロの尼が越中の立山に上る。女人結界の禁を破ったために角が生えて石になったのが姥石という。」である。
百沢登山道にある「姥石」の謂われも、これと同じだろうと思うし、他の二ヶ所のものも、これと同一視していいと考えられる。ただ、弥生登山道のものは、標高の高さと極めて新しい時代に敷設されたので、そのような「謂われ」を歴史として持ち合わせることは不可能ではないかとも考えられる。
他に、「姫路城の石垣」に「姥(うば)が石」というものがある。これは、「秀吉の築城のため、差し出された老婆の石臼」であって、これは前二者とは所以・理由を異にする。
ところで、赤倉登山道のものは「伯母石(おばいし)」である。「姥石」と表記して「おばいし」と読ませるところもあるので、意味としては、恐らく「姥」なのだろう。だから、この際、あまり「表記」には拘らないでおきたい。「女人結界」や「女人禁制」という意味合いで捉えるのが、極めて自然ではなかろうか。
しかし、「おば」には、漢字表記では「伯母」(姉)と「叔母」(妹)の二語がある。
これは「伯父」(兄)「叔父」(弟)からの転用であろうが、元々は『伯夷叔斉(はくいしゅくせい)』つまり、…
『孤竹君の次子で、伯夷(はくい)の弟の叔斉は、父に自分を世嗣にする心があったが、弟であるというので受けなかった。周の武王が殷の紂王を討つに当って、兄の伯夷と共に、臣が君を弑する不可を説いて諫めたがきかれなかったので、周が天下を統一するや、その粟を食らうことを恥じて首陽山に隠れ、わらびを食って共に餓死したと伝える。(広辞苑 第五版)』…という故事による。
「伯母石」は、他の「姥石」とその名称が違うだけではない。明らかに、その外見が違い、全体の趣もまったく異質である。
他の「姥石」は「単体」であり、かつ全体的に丸みを帯びている。どこか、優しい老婆を連想させるのだ。
しかし、「伯母石」は「単体」を装うが、その上に大きな岩を積み重ねるようにして「背負って」いる。つまり、上部に累々と積み重ねられた岩石からなる「岩稜」をその下端で支えながら、踏ん張っているのである。その様子からは「優しい老婆」というイメージは到底浮かばない。それは、強靱で剛力さを誇る「不動明王」に近いものだ。
しかも、その形状には、「丸み」や「柔らかさ」はない。まさに、人工的な「刃物」で切り出したような「鋭角」的な様相を見せる一枚岩なのである。硬くて絶対に砕けない永遠性を秘めたご神体、鋭く力強く支えるご神体、盤石不動なるご神体なのである。
この写真は一緒に出かけたTさんが写したものだ。)
今日はこの「伯母石」のことと、その上部にのしかかるように連なっている「岩稜」について書こう。
岩木山の各登山道沿いには「大岩」がある。百沢、弥生、長平登山道のものは、「姥石(うばいし)」と呼ばれ、巨石信仰の具体的な信仰対象として祀られている。
岳登山道沿いにはないが、この登山道は新しいものであって、旧いものは「湯ノ沢」を遡行するものだから、途中多くの「大岩」と出会える。だから、この「旧い」登山道では当然、名称は定かではないが「姥石」などと呼ばれた「大岩」信仰があったと考えられる。 ところで、名称についてだが、他の登山道では「姥石」と呼ばれるのに、赤倉登山道のそれは「伯母石」なのである。「姥」は「老女」のことである。百沢登山道では、その昔「女人」は標高668mの「姥石」までしか登山が許されなかった。いわゆる「女人禁制」である。弥生登山道の「姥石」は他の「姥石」のある位置より標高が高く、大体1100mほどのところにある。長平登山道では標高620mほどのところにあり、これは小振りだ。
「姥石」という地名は全国的に多くあるようだ。
宮城県伊具郡丸森町のものは「姥石」と表記して「おばいし」と呼ばれている。
その謂われは「昔、村の若者が草刈に行き、藤の花に見とれているうちに鎌を水中に落とした。覗いてみると、鎌は大石のそばの水底に見えるので、飛び込んだのだが、若者はそのまま帰らなかった。月日が経つこと数百年、あるときこの若者の家に一人の老人が現れて今までの出来事を語ったのだが、それは、大石の奥にあった細道から水宮玉楼に行き、乙姫ならぬ美女と夢のような生活をしてきたと話したという。」である。
富山県宇奈月町にあるものは「うばいし」と呼ばれている。その謂われは「若狭国小浜のトウロの尼が越中の立山に上る。女人結界の禁を破ったために角が生えて石になったのが姥石という。」である。
百沢登山道にある「姥石」の謂われも、これと同じだろうと思うし、他の二ヶ所のものも、これと同一視していいと考えられる。ただ、弥生登山道のものは、標高の高さと極めて新しい時代に敷設されたので、そのような「謂われ」を歴史として持ち合わせることは不可能ではないかとも考えられる。
他に、「姫路城の石垣」に「姥(うば)が石」というものがある。これは、「秀吉の築城のため、差し出された老婆の石臼」であって、これは前二者とは所以・理由を異にする。
ところで、赤倉登山道のものは「伯母石(おばいし)」である。「姥石」と表記して「おばいし」と読ませるところもあるので、意味としては、恐らく「姥」なのだろう。だから、この際、あまり「表記」には拘らないでおきたい。「女人結界」や「女人禁制」という意味合いで捉えるのが、極めて自然ではなかろうか。
しかし、「おば」には、漢字表記では「伯母」(姉)と「叔母」(妹)の二語がある。
これは「伯父」(兄)「叔父」(弟)からの転用であろうが、元々は『伯夷叔斉(はくいしゅくせい)』つまり、…
『孤竹君の次子で、伯夷(はくい)の弟の叔斉は、父に自分を世嗣にする心があったが、弟であるというので受けなかった。周の武王が殷の紂王を討つに当って、兄の伯夷と共に、臣が君を弑する不可を説いて諫めたがきかれなかったので、周が天下を統一するや、その粟を食らうことを恥じて首陽山に隠れ、わらびを食って共に餓死したと伝える。(広辞苑 第五版)』…という故事による。
「伯母石」は、他の「姥石」とその名称が違うだけではない。明らかに、その外見が違い、全体の趣もまったく異質である。
他の「姥石」は「単体」であり、かつ全体的に丸みを帯びている。どこか、優しい老婆を連想させるのだ。
しかし、「伯母石」は「単体」を装うが、その上に大きな岩を積み重ねるようにして「背負って」いる。つまり、上部に累々と積み重ねられた岩石からなる「岩稜」をその下端で支えながら、踏ん張っているのである。その様子からは「優しい老婆」というイメージは到底浮かばない。それは、強靱で剛力さを誇る「不動明王」に近いものだ。
しかも、その形状には、「丸み」や「柔らかさ」はない。まさに、人工的な「刃物」で切り出したような「鋭角」的な様相を見せる一枚岩なのである。硬くて絶対に砕けない永遠性を秘めたご神体、鋭く力強く支えるご神体、盤石不動なるご神体なのである。