goo blog サービス終了のお知らせ 

桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

キューポラのない街 ― 日光御成道

2010年11月26日 19時50分21秒 | 歴史

 日光御成道・川口宿を探索してきましたが、その日のうちにブログに書くことができず、翌日は立花誾千代の祥月命日だったので、書くのはそちらを先にしたため、五日も前のことなのにあと回しになってしまいました。
 二十一日の日曜日、越谷に所用があって出かけたので、帰りに川口へ足を延ばしていたのです。
 先日赤羽へ行ったとき、赤羽に日光御成道の岩淵宿があり、荒川を挟んで川口宿もあったのだと識りました。岩淵宿には面影はまったくといっていいほど遺されていませんが、川口宿には多少なりとも遺されているような……と識ったからです。



 武蔵野線の南越谷から東川口へ行き、地下鉄南北線(埼玉県内の呼称は埼玉高速鉄道)に乗り換えて、川口元郷(かわぐちもとごう)という駅で降りました。



 旧街道がありそうな方角を目指して歩くと、国道122号線からJR川口駅に通じる道路との交差点にミニ緑地がありました。「鍋屋の井」という石碑が建てられています。
 かつてはここに噴き出しの井戸があったようです。しかも名水で、それに目をつけたユニオンビールという会社が進出してきたために、名水も涸れてしまったとか。



 川口市立文化財センター。
 二階へどうぞ、とあったので階段を上って行くと、事務室兼受付がありましたが、入館者は私だけでした。「御成道を見にきたのですが……」というと、男性職員がおもむろに出てきて、「片づけちゃったかなァ」といいながら、シャッターの下ろされた別室に案内してくれました。私が訪ねた前の週まで御成道の企画展があったのだそうです。

 

 幸いにしてまだ片づけられずにいましたが、決して広い展示室とはいえないのと複製地図と写真が中心の展示だったので、上手く写真に撮ることができません。

 

 常設展示を見ていたら、こんなストーブがありました。
 小学校か中学校、もしくは両方とも、であっただろうか。両方とも見た憶えがありますが、どっちがどっちだったかは憶えがありません。画像(下)のほうが近代的な感じがします。こちらは高校時代だったかもしれないという気もします。

 文化財センターをあとにして、教わった道を荒川に向かって歩くことにしました。文化財センターを訪ねていなければ、私が見当をつけていたのは方向違いの道でした。またとんでもない道を歩くところでした。

 

「鍋屋の井」のあったミニ緑地のすぐ前が、いまは「本一(本町一丁目)通り」と呼ばれている寂しげな商店街の入口です。昭和四十年ごろまでは活気溢れる商店街だったそうですが、この通りがかつての御成道であり、岩槻街道です。
 パンフレットも案内地図もないので、古そうな建物を見つけてはカメラを向けました。
 美濃屋畜産店(上)と福田屋洋品店。福田屋洋品店の手前・植木鉢を並べた家はかつては商店だったと識れますが、何を商う店であったかは不明。



 縄屋商店。現役かそうでないか。現役だとしたら、何を生業(なりわい)としているのか、まったく不明。




 お菓子とホビーの名古屋本店。このスタイルからすると昭和初期か。



 中西日進堂薬局。古そうですが、大正時代の建築。江戸の面影を求めたいので、大正は新し過ぎます。



 濱田接骨院。こちらはもうちょいと古く、明治期の建築。

 残念ながら江戸時代の名残は何もありませんでした。
 どこかの路地を入ったところに本陣の門が遺されているようですが、どこを曲がればいいのか、見当がつかないので、本日の取り組みはこれにて打ち止めです。
 時代は問わず、古い建物の遺された町という観点で見れば別だったのかもしれませんが、川口宿=江戸時代という観点で歩いたので、ふーむと考え込むことしきりの道中でありました。

 川口市も私とは違う観点から同じようなことを考えるのか、川口宿に関しては熱心ではなさそうです。それが証拠に案内板のたぐいは一つもありませんでした。あれば、本陣の門を見ることができたのに……。




 荒川堤防下に建つ鎌倉橋の碑。
 鎌倉時代、このあたりは舟戸が原と呼ばれる原野でしたが、鎌倉から奥州に向かう街道があったので、小川に架けられた橋を鎌倉橋と呼んだようです。鎌倉と奥州といえば、源九郎義経です。兄・頼朝を応援しようと平泉から駆けつけた義経もこの橋を渡ったのです。

 このあと「本一通り」に一度戻って訪れる錫杖寺というお寺が川口宿の北端ということですから、そこからこの碑のあるところまで500メートル少々しかありません。
 中仙道追分(現在の東京・本郷)から近く(約11キロ)、江戸を出た旅人は川口宿から三つ先の岩槻宿で泊まるというのが普通だった(将軍の日光社参も第一日目の宿は岩槻城)ので、隣の岩淵宿と併せて一宿と数えられました。本陣脇本陣それぞれ一軒ずつありましたが、旅籠の数はわずか十軒と、旅籠の数だけでいうと、我が小金宿の十分の一という小さな宿場町でした。



 広い河川敷を横断して荒川の川岸まで行ってみました。
 画質が悪く、判別できるかどうかわかりませんが、遠くに写っているのは、先週訪ねた赤と青の新旧岩淵水門です。

 

「本一通り」を逆戻りして錫杖寺へ。
 真言宗智山派のお寺で天平十二年(740年)、行基が草案を結んだのが始まりと伝えられています。
 江戸時代に入った元和八年(1822年)、徳川秀忠が日光参詣の折、この寺で休息したのにならい、翌年、家光の参詣の折にも休息所となって、以来、将軍が日光に参詣するときは必ずここで休息することになりました。



 境内にあった可愛い石像。

 讀賣新聞に務臺光雄(1896年-1991年)という人がいました。社長・会長を歴任した人です。
 務臺さんのころ
の讀賣は、まだ全国紙ではなかったこともあって、「朝毎讀」といわれるように三番手でした。なんとか毎日を抜き、朝日を抜いて部数を日本一にするために、務臺さんが知恵を絞った手段の一つは、讀賣巨人軍を使って、子どもたちのファンをつくることでした。新聞を取ってくれる家に子どもがいれば、後楽園球場の入場券をプレゼントしたりしたのです。
 子どもが新聞を買ってくれるわけではない(つまり無駄な投資ではないか)、と幹部たちは異を唱えたそうですが、務臺さんは「いずれ大人になったとき、讀賣のファンになってくれる」といったそうです。
 直接聞いたわけではありません。務臺さんを心から崇拝していた讀賣OBで、のちに脱税で捕まった人から聞いた話です。

 脱線しました。
 右のほうには「かわぐち地蔵」の石像があるのですが、キティの像はそれと同じような扱いになっていました。これを見て、錫杖寺の住持も務臺さんのようなことを考えているのか、とふと思ったまでです。

 錫杖寺に参詣しているとき、荒川河畔に善光寺というお寺があったことを思い出したので、再び荒川へ戻りました。



 今度は違う道を歩いてみました。
 金山町といういかにも鋳物にゆかりのありそうな地域で見つけたキューポラの排煙塔です。
 文化財センターの係員に教わるまで、私はキューポラといえば、煉瓦か何かでこしらえた煙突がニョキニョキと立っていたのだろうと思っていました。この形とは違う煙突型のものもあるそうですが、キューポラそのものは建物の中なので、外から見ることはできません。
 ことにいまは高層マンションが林立しているので、鋳物工場のある路地に偶然迷い込まない限り、排煙塔に出会うことすら困難です。
 こうして、川口からキューポラがなくなったわけではないけれど、外見的にはキューポラのない街へと変わりつつあります。



 夕陽を受ける善光寺に着きました。荒川堤防の上にあります。昭和四十三年、火災で焼失したあとに建てられた近代的な堂宇で、江戸時代の面影はまったくありません。



「江戸名所図絵」(ちくま文庫から)に描かれた善光寺。
 開創は建久六年(1195年)。信濃の善光寺にお参りするのとと同じ御利益があるとされたので、江戸市民はこぞって参詣したということです。

 帰りは京浜東北線の川口駅に出ました。

 このブログを書こうと資料を捜していたら、川口宿の先、大門宿(武蔵野線東川口駅近く)にはもう少し「らしい」遺構があるようです。近いうちに訪問しようと思います。



最新の画像もっと見る

1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
懐かしくて・・・ (hiiragi123jp)
2011-02-05 10:45:00
むかし、美濃屋畜産店の3軒隣に住んでいて今はマンションになっていますが、写真を見たら懐かしくて子供の頃を思い出しました。たまには川口に帰ってみようかな・・・
今は長野で田舎暮らししています。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。