今月の薬師詣では千葉県成田市。
成田山新勝寺の薬師堂、薬王寺、醫王寺の三か寺に詣でます。
出発前に地元の慶林寺に参拝して行きます。
我孫子で成田線に乗り換えて、所要五十九分で成田駅に着きました。
「→成田山新勝寺」という掲示に従って、表参道を歩いて行きます。
暦の上では立秋を過ぎたとはいっても、実際はまだ真夏です。台風5号が東海上を進んでいたので、強い風がいささかの涼をもたらせてくれていますが、真夏であり、暑いことはゆるぎもしません。
そんな暑い日なので、観光客の姿はまばらです。まばらでも、成田駅を降り立った観光客らしき人々は多分全員が新勝寺を目指しているのでしょう。
私は薬師詣でにきているのですから、純粋な観光客とはいえませんが、帰りにはお土産の一品でも買って帰ろうともくろんでいるのですから、成田市にとっては観光客なのであろうと思います。
ただ、そんな観光客のなかで、新勝寺を目指さないのは私だけだったかもしれません。
成田にきているのに、成田山に参拝しない。それは一千年以上も前の人-平將門に関係しています。
東国に政権樹立をもくろんだ將門を征伐しようとした当時の朝廷(朱雀天皇)が、空海が彫ったという不動明王像を、寛朝という僧侶に持たせて、公津ヶ原で不動護摩供を奉修しました。やがて將門は戦死。それを悦んで拓いた霊場がいまの新勝寺だからです。
私は生まれたときから將門贔屓だったわけではなく、將門や將門の家来たちの関係者でもないので、まだ將門と新勝寺の因縁を知らないころ、新勝寺の門前まで行ったことがあります。が、たまたまであったのかどうか、参拝したことはありません。
新勝寺の薬師堂です。
新勝寺には参拝しないと心に決めている人間が新勝寺の薬師堂に参拝していいのか。將門の無事息災を祈るのではなく、友や知人の無事平穏を祈るのだから、と普段の薬師詣ででは考えたことのないことを考えながら参拝を終えました。
新勝寺の薬師堂から十分ちょっと歩いて、薬王寺に着きました。
天台宗の寺院です。天台宗の総本山・延暦寺根本中堂の本尊は伝教大師最澄が手ずから彫ったといわれる薬師如来です。
その天台の寺院で、寺号が薬王寺というからには薬師如来が祀られているはず、と思ってきたのですが、本尊は阿弥陀如来。薬師如来は祀られていませんでした。
先ほどの薬師堂前に戻ってバスに乗らなければならないので、早々に退散することにします。
二十分近い余裕があったので、慌てる必要はありませんが、次の目的地に向かうバス便は一日に五便しかなく、万が一逃すと、次にくるバスは二時間半後。今日計画していた行程を辿るのは諦めなければなりません。
薬師堂前に戻って、バスがくるのを待ちます。
待っていると、やってきたのはこんなバスです。
成田市のコミュニティバスで、一区間乗っても、全区間乗っても、大人は¥200、子どもは¥100。
乗客は十人ほどでした。私の前でバスを待っているように見えた二人は別のバスを待っていたようで、乗ったのは私だけでした。降りる停留所は「宝田小坂」です。
十分ほど揺られているうち、一人降り、二人降りして、私を除くと客はわずか三人……となったところで、「次は宝田小坂……」。
車内のアナウンスがそう告げた……と思います。
停車のボタンを押して、降りたのは私だけ。
降りてから、周りを見廻し、プリントしてきた地図をおもむろにバッグから取り出しました。目的のバス停であれば、斜め右前方へ入って行く径があるはずです。しかし、あるのは直角に右に入って行く道だけです。アリャアリャ、やっちゃったかも……と唇を噛みながら、バス停の標識を見ると、「宝田小坂」ではなく、「宝田小橋」で、ありました。
次のバスがくるのは二時間半後です。降りるべきではないところで降りてしまったのですから、地図の用意はありませんが、同じ「宝田」とつくのだし、バスが走り去った方向に歩いて行けば、何分かかるかわからないが、早晩着くと思って、歩き出しました。
歩くのは国道408号線。トラックや乗用車がビュンビュン飛ばして行きますが、救われたのは広い歩道があったことでした。二十分弱で着くことができました。
本来降りるべきバス停はこの宝田小坂でした。
ちょっとした上り坂の途中にあります。ちょっとしているから、小坂なのですね、と思いましたが、帰ったあと、バスの路線図を見たところ、宝田大坂も宝田大橋もありませんでした。
バス停の手前で道は地図のとおり二股に別れていて、国道からはずれたほうの道を歩いて行くと、醫王寺がありました。無住ですが、天台宗の寺院です。
「成田市史・近代編史料集一」所収の「下總國下埴生郡。寶田村誌」には、「醫王寺は北方字邊田郭にあり。光照山と号す。同郡山の作村圓融寺末流なり」(原文はカタカナ)という記述しかありません。
本堂の左にあった御堂です。屋根の形からして、この御堂が薬師堂であろうと思われます。中は見えません。薬師堂の前には賽銭箱がなかったので、本堂前に戻ってお賽銭をあげます。
門前にはこんなものがありました。これこそほんとうのカラオケボックスです。
しかし、どうも営業しているようには思えないし、そもそも周辺にパラパラと家はあっても、集落と呼べるようなものではありません。
「カラオケはあるけれど、かける機械は見たことねェ」ではないけれど、「カラオケはあるけれど、使う客は見たことねェ」のかもしれません。
これで今日の予定は終了です。
午後二時半です。帰りのバスがくるのは十五時九分。四十分近い余裕があります。考えてみると、バス停の名を聞き違えていなければ、二十分早く着いていたので、一時間もの空きができるところ、二十分短縮することができた、と前向きに考えることにしました。
地図に目を落とすと、直線距離で4~500メートルほど離れたところに正福寺というお寺があります。真言宗智山派の寺院というだけで、どんなお寺なのか、なんの予備知識もありませんが、四十分という空き時間を過ごせるようなところはありそうもないので、訪ねてみることにします。
十分ほどで正福寺に着きました。無住、集会所のような建物です。
先の醫王寺と同じ「成田市史近代編史料集一」所収の「千葉縣下總國下埴生郡下福田村誌」には「正福寺は本村南方に在り、之亦旧記なし建立不詳」という記述があるのみ。
本堂左手に小堂がありました。
中を覗くと、右にはボロボロになっているので、判別もつきませんが、じっと見詰めていると、何体か欠けていますが、なんとなく十二神将のように思えます。
本堂の後ろに廻ると、こんな急な石段がありました。
裏参道のようですが、どこへ行くのかわからないし、こんな急な石段は上りたくもないので、パスします。
この石段もどこへ通じているのかわかりません。
帰路は違う径を歩いてみることにしました。途中にあった電柱に利根川が氾濫したときの注意書き。利根川までは4キロほどあります。
電柱の見上げるほど高いところに記された青い線。見えにくいのですが、画像の中央あたりです。この線が利根川が氾濫したときに予想される水位です。
正福寺から十分弱で宝田小坂の一つ手前-下福田のバス停に着きました。
くるときのバスは四分遅れていました。そのバスがそのまま戻ってくるのだろうと思われます。どんなところで折り返してくるのかわかりませんが、帰りのバスも律儀に四分遅れでした。
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