桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

吉祥寺界隈寺巡り(2)

2011年05月28日 22時47分24秒 | 寺社散策

 目赤不動脇を抜けて再び本郷通りに戻り、向こう側に渡ってしばらく歩くと、吉祥寺通用口という標識が目に入ったので、とっさに曲がってしまいました。



 曹洞宗洞泉寺。かつては吉祥寺の塔頭の一つでした。



 洞泉寺には江戸時代の著名な儒学者・原家四代の墓があります。
 初代・双桂(1718年-67年)は京生まれ。敬仲(1748年-93年)は双桂の次男。念斎(1774年-1820年)は敬仲の子で、「先哲叢談」を著わしました。徳斎(生没年不詳)は念斎の養嗣子。



 洞泉寺の手前に吉祥寺の通用口がありました。
 洞泉寺への行きがけに、いわくありげな堂宇があるのを見ていましたが、それが通用門の正面にあり、近づいてみると経藏でした。



 通用門から見ると、経藏左手の墓所にある榎本武揚(1836年-1908年)の墓。



 吉祥寺の創建は長禄年間(1457年-60年)。開基は太田持資(道灌)。
 ものの本には、開山に下野国永源寺から青巌周陽大和尚(?-1542年)を招いたとありますが、道灌の存命中(1432年-86年)に青巌周陽が開山となるのは年齢的に見て苦しいものがあります。青巌周陽をキーワードにして調べてみると、吉祥寺の開山となったのは大永年間(1521年-28年)とありました。

 道灌が江戸城を築いたとき、井戸から「吉祥増上」と刻銘した銅印を得たので、これを吉瑞として江戸城内に吉祥庵を建立したのが始まりですが、「江戸名所圖絵」には遠山丹波守綱景(?-1564年)という人が中興したと記されています。庵に過ぎなかったものを遠山綱景が本格的な堂宇にし、そのときに青巌周陽が招かれたのではないかと想像されます。
 家康が江戸に入るのを機に、いまの水道橋付近に移されましたが、明暦三年(1657年)の大火で焼失し、現在地に移転。



 山門から本堂までは目測で200メートルぐらいあります。
 その間にある八百屋お七と吉三郎の比翼塚です。ここに塚があるのは、お七が恋い焦がれ、逢いたさのあまり火つけに及んだ寺小姓吉三郎がいたのが、この吉祥寺であったのです。
 吉三郎がいたのはお七の墓がある圓乗寺という説もありますが、こちらでは小姓の名は山田佐兵衛。 



 これも山門から本堂の間にあった二宮尊徳の墓碑。 



 ようやく本堂前まで辿り着きましたが、境内は非常に広く、あちこちに墓所が分散しています。
 著名人の墓の多いお寺の場合、案内図があったりしますが、このお寺ではそのような便宜は図られていません。観光地ではないのだから当然だと思いますが、榎本武揚の墓も二宮尊徳の墓碑も偶然見つけたもので、私が目的とする墓を捜し当てるのは不可能のように思えました。

 本堂右手に寺務所がありました。訪ねてみようかと考えていたら、折よく女子事務員が出てきたので訊いてみると……。

 なぜ勘違いをしていたのかわかりませんが、なんとなんと、私が墓参をしようと思っていた人の墓はこのお寺にはありませんでした。
 その人の名は柴田錬三郎(1917年-78年)。
 梶山季之さんと同じように、私が若造だったころに、一度お目にかかっただけのお人です。それだけのお人なので、亡くなられたと知っても、通夜も告別式も参列しませんでした。折をみて線香だけ手向けようと思いながら、墓参の機会が訪れなかったのでした。

 代わりに、というわけではないのですが、鳥居耀蔵の墓を訊ねると、「鳥居さんのお墓はわかりにくいんですよ」といいながら、わざわざ墓前まで案内してくれました。



 本堂左手奥のほうにあった鳥居家墓所。右の黒っぽい墓石が鳥居耀蔵夫妻の墓。
 矢部駿河守定謙を罪に落とし、五十四歳という若さで自死に追いやったあと、みずからも失脚して、讃岐丸亀藩に流されるという憂き目に遭いました。しかし、この男は二十三年間という長期の幽閉生活にめげることなく、悠然と生きつづけ、矢部さんより二十四年も長く生きました。
 罪を憎んで人を憎まず……しかも、死後百四十年も経っているのだから、と思いながらも、墓の前で冥福を祈るのはちょっと複雑な気分で、結局は手を合わせずに踵を返しました。

 家に帰って調べてみたら、柴錬さんのお墓があるのは小石川の伝通院でした。幸いというか、命日は六月三十日と近いので、なんとかして行かねばなりますまい。



 浄土宗常徳寺。
 身代り地蔵があります。「続江戸砂子」には「身丈七尺余の木造で恵心僧都作といわれる。常徳寺二世の転誉上人が重病にかかり、右眼が見えなくなるというとき、この地蔵に希念すると、地蔵の右眼が腫れて、代わりに上人の病気は全快した」と紹介されています。第二次大戦で焼失して、現在あるのは再建されたもの。
 開創三百八十一年といいますから、創建は寛永七年(1630年)ということになります。



 臨済宗妙心寺派徳源院。 




 徳源院に祀られている日限(ひぎり)地蔵。
 寺伝によると、寛政五年(1793年)、近くの動坂に建立されたもの。願い事を日を限って祈願すると霊験あらたかであることから日限地蔵と呼ばれて崇拝されてきました。

 

 臨済宗妙心寺派養源寺。
 最初建立されたのは湯島切通坂下。明暦の大火後、この地に移されました。開基は稲葉正勝(1597年-1634年)。春日局の長男です。



 養源寺に安井息軒(1799年-1876年)の墓がありました。
 江戸時代末期の儒学者。日向国飫肥の人。
 私が安井息軒に興味を惹かれるのは息軒その人の事跡ではなく、森鴎外に息軒こと安井仲平とその妻・佐代のことを書いた「安井夫人」という佳品があるからです。
 鴎外というと、「舞姫」というのが定番みたいですが、私からいわせれば、そんなのは素人。無理なたとえですが、ベートーヴェンといえば、第七、第九を差し置いて、「エリーゼのために」というようなものです。鴎外は「安井夫人」、あるいは「寒山拾得」、あるいは「阿部一族」。



 養源寺を出ると、粋な三味の音が聞こえました。幽かに漂ってくる線香の匂いを嗅ぎながら、しばらく立ち止まって耳を澄ませます。

 近いのでほかにも行ってみたいお寺はいくつかありました。小田原道了尊最乗寺(曹洞宗)の東京別院、大圓寺(同)、八百屋お七の墓がある圓乗寺(天台宗)……。
 この日、私が歩いたのは向丘地区ですが、西隣の白山地区を合わせると七十ものお寺があるのだそうです。近いので、といっていると、日が暮れてしまうので、来月の通院の帰りに、再来月の……と巡ることにします。
 帰りは千駄木駅から地下鉄千代田線に乗るつもりだったので、千駄木に向かいがてら、あと一か寺だけ寄って帰ることとします。



 養源寺門前から歩くことわずか二分。浄土宗蓮光寺。



 創建は慶長六年(1602年)で、創建の地は湯島。明暦の大火で罹災して、現在地に移転したといわれています。



 蓮光寺にある江戸時代後期の北方探検家・最上徳内(1754年-1836年)の墓。
 出羽(現在の山形県村山)の人。天明四年(1784年)、幕府の測量隊とともに蝦夷地に渡り、国後、択捉を経て、日本人として初めてウルップに渡った人です。

 

 お寺巡りをしながら随所で紫陽花(アジサイ)を見かけました。我が庵近くには紫陽花の名所といわれているところが結構あるのに、まだ蕾ばかりで、花開いていません。
 通院したこの日の朝、確か早朝の散歩に出て、紫陽花を見に行ったという記憶があります。
 ……記憶があります、などとあやふやな表現になるのは、このように開花している花は一つもなかったので、もしかしたら何日も見ていなかったのでは、という思いにとらわれてしまったからです。
 吉祥寺界隈を巡った翌朝、早速確認に行きましたが、それは明日のブログとします。



 帰りは団子坂を下りました。

↓この日歩いたところ。本郷三丁目~吉祥寺~千駄木駅です。
http://chizuz.com/map/map91148.html


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