私のメル友の一人は自称晴れ女。終い薬師の八日が近付いてきた三日前、「薬師詣でに行くよぉ~」と伝えると、「きっと晴れますよぉ~」という返信がありましたが……。実際に薬師如来の縁日がきてみると、朝から陽射しはなく、いつ降り出してもおかしくないと思わせる空模様でした。
十二月の薬師詣では生まれ故郷のお寺を訪ねることにしました。生まれ故郷といっても、すでに家もなく身寄りもなく、知己もいないので、こういう機会でもないと、訪れることはありません。最寄りの両国駅に降り立ったのも何年ぶりになるのか、にわかには思い出せないほど遠い昔です。
駅の真ん前にあるホテルに観光案内所ができていました。覗かせてもらいましたが、私が参考にできるようなパンフレット類はありませんでした。
西口を出て、広い国技館通りを回向院に向かいます。
浄土宗・回向院は江戸の災害と深いかかわりを持つ寺院であり、明麿の大火(俗に振袖火事といわれる)による焼死者を埋葬した地に建てられたものです。
このころからポツポツと雨が降り出しました。
回向院の境内を通り抜ければ、今日最初の目的地……のはずだったのですが、あるのは工事のフェンスだけ。
アレレと思って地図を取り出してみると、「卍」印があって、大徳院とありました。そういえばそうそう、と独り合点して、山門はどこであったか、と思いながら歩きましたが、それらしきものが見当たらない。臨時の寺務所を見つけて、ガラス扉の前で合掌しました。
高野山真言宗の寺です。古くは神田橋外に宿寺居屋敷を拝領していたと伝えられていますが、「墨田区史」によると、寛文六年(1666年)に本所猿江に移転、さらに貞享元年(1684年)に南本所元町の現在地に移ったもので、その当時の住僧宥永上人を中興開山としています。本尊は弘法大師の作と伝えられる寅薬師如来で、江戸八十八所弘法大師めぐりの一所に挙げられていました。
本所両国といえば何よりも有名なのは松坂町の吉良邸跡です。
画像は竪川(立川)に架かる一之橋を渡ったあと、南詰から振り返って撮ったもので、吉良邸があった本所松坂町公園は橋を渡る手前を左(画像では右)に曲がった先にあります。200メートルほど先。裏門跡までなら100メートルです。
討ち入りを果たした大石内蔵助たちは永代橋に向かうため、この一之橋を向こうからこちらへ渡ってきたのでした。
こんなポスターも見かけたので、帰りに吉良邸があった松坂公園に寄ってみようとも思いましたが、雨は次第に強くなってきていました。まずは薬師詣でを優先です。
両国駅から歩くことおよそ三十分、二つ目の目的地である弥勒寺に着きました。
慶長十五年(1610年)、宥鑁上人が小石川鷹匠町に創建、数度の移転を経て、元禄二年(1689年)、この本所の地に移転したと伝えられています。
江戸時代には新義真言宗関東触頭四か寺(ほかの三か寺は知足院、円福寺、真福寺)の一寺としての格式を持っていました。 本尊は行基作と伝えられる薬師如来で、一名を川上薬師というそうです。
そのいわれは「文政寺社書上」によると、薬師如来像はもと常陸国水戸領内の寺院にあったもので、その寺地はゆえあって藩主・徳川光圀によって没収された。その折、薬師如来像を川中に投棄したところ、像は川上に向かって流れた。このため、再び光圀の信仰を受けることになって、川上薬師と呼ばれるようになったということです。
この像がなぜ弥勤寺に移されたかは明らかにされていませんが、かつては江戸十三薬師の一つとして多くの参詣者を集めていたということです。
弥勒寺と向かい合わせにあるのは新義真言宗の法樹院です。弥勒寺の一子院として創建しましたが、昭和十八年に弥勒寺を離れて、本山・長谷寺末となりました
龍光院。ここも新義真言宗で、弥勒寺の一子院として創建しましたが、後年弥勒寺を離れ、こちらは和歌山・根来寺の末寺となりました。
龍光院から三分で長慶寺。曹洞宗のお寺です。縁起には「深川孫右衛門夫妻より、越後村上の霊樹山耕雲寺二三世一空全鎖大和尚を開闢開山に勧請し、当山二世大事不安大和尚布延するという」とあって、創建年代がわかりませんが、さらに読み進めて行くと、「開創より三一年後、万治三年(1660年)」という記述があるので、創建は1629年、すなわち寛永六年ということになります。
松尾芭蕉を弔う碑。元禄七年(1694年)、芭蕉が難波で亡くなったのを聞いて、江戸の門人杉風・其角などが翁を江戸で弔うために落歯・発句を埋め塚をこの長慶院に建てたもの。
長慶寺から九分で要津寺。
臨済宗妙心寺派。慶安年間(1648年-51年)、下総関宿藩の初代藩主・牧野成貞が父・成儀を開基として僧・東鉄が東光山乾徳寺と号して駒込に創建したと伝えられています。元禄四年(1691年)、現在の地を牧野家下屋敷として拝領することになったので、寺を移し、成儀の戒名(要津院殿壁立鈍鉄大居土)に因んで寺号を要津寺に改めたということです。
要津寺から五分の浄土宗・西光寺。
慶長十一年(1606年)、小林治右衛門国広によって創建されました。開山は源蓮社信誉上人英松和尚で、本尊は阿弥陀如来です。小林国広は天正七年(1579年)、大阪から牛島の地に移り、海辺新田の開拓に当たった人物で、のちに出家して然蓮社湛誉休西比丘と称しました。浅草海苔の製造によって産をなした人物ともいわれています。
くるときに渡った一之橋の一つ東側の塩原橋で竪川を渡って帰ります。
すでに跡形もないのですが、生家があったあたりを歩いてみようかと思ってはいたものの、徒歩で往復すれば三十分以上かかります。雨が烈しくなってきているし、行ったところで名残のものは何もないんだし……などと独り言を呟いて、寄らずに帰ることにしました。
両国駅に戻るころには雨はすっかり本降りになってしまいました。
いつも駆け足でしたが、ともかくこれで今年一月八日から毎月八日に参詣することを期して始めた薬師詣では十二か寺を巡って終わりました。
遠くへ行くことは叶いませんが、近場なら行けるところがまだあるはず。薬師如来を祀るお寺を、さらに十二か寺見つけることができたなら、来年も一年かけて……と思っていたところ、関東九十一薬師霊場というのがあるのを知りました。まさに関東七都県を網羅しています。
その中に、かつて私が訪れたことがある寺院はありやなしや、と一覧表を眺めてみれば、足立区綾瀬の薬師寺と越谷市東越谷の東福寺、それに柏市大井の福満寺だけでした。
綾瀬の薬師寺は薬師如来の縁日である十月八日に参詣していましたが、その日の主目的は牛田薬師に参ることでしたから、どちらかというと、ついで、であったわけです。
越谷の東福寺は何も知らずに行ったら、たまたま薬師堂があったというだけ。福満寺も、いわれてみれば、薬師如来が祀られていたような……という淡い記憶があるだけで、二か寺とも縁日とは無縁の日に行っています。改めて行く機会もありそうです。
➡この日、歩いたところ。
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