桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2011年三月の薬師詣で・葛飾区

2011年03月08日 21時53分09秒 | 薬師詣で

 八か月間に及んだハローワーク通いも今日が最後になりました。
 今日八日は薬師如来の縁日でもあります。朝イチでハローワークへ行くことになっていたので、ハローワークのある松戸駅の先、千住とか日暮里あたりにお薬師さんのおられるところはないか、とインターネットをさまよっていたところ、松戸の一つ先・金町に多田薬師と呼ばれる仏様を祀るお寺があるのを知りました。



 金町駅で降りて北口に出ました。



 駅から徒歩十分。このあたりのはずだが、と思ったところで、イヤに賑やかな声がすると思ったら、幼稚園がありました。お寺があることはありましたが、併設の幼稚園のほうが断然広く、併設されているのはお寺のほう、という感じです。
 



 墓所の前にズラリと並べられたママチャリ。



 縁日なのに、薬師如来が安置されているはずの本堂は扉が閉じられたままでした。
 写真はわざと避けて写しましたが、周辺には先のママチャリの持ち主たちがたむろしていました。
 時間は朝十時。園児たちが帰るのを迎えにきたのにしては早過ぎます。何をしているんだろうという興味なぞないが、寺の関係者でもいないか、と思って眺めていても、ともかく女ばかりで男の姿がない。

 門前に一年の行事が貼り出してあったので眺めてみると、薬師如来の「や」の字もありませんでした。縁日だからといって特別なことはしないのかどうか、ママチャリ軍団に訊ねてみても仕方がなかろうと、御堂の中におわすであろうお薬師さんに手を合わせて、依然として疑問は解けぬままに引き揚げることにしました。
 

 多田薬師とは通称で、寺号は東江寺です。私が巡る地域ではあまりお目にかからない天台宗のお寺です。
 創建は天正十一年(1583年)で、創建以来、現在の墨田区東駒形にありましたが、大正十二年の関東大震災で被災したあと、帝都復興計画により、昭和三年に現在の葛飾区東金町に移ってきました。
 本尊の薬師如来像が平安時代中期の武将・多田(源)満仲(912年-97年)の念持仏であったことから、多田薬師と呼ばれてきたのです。満仲は大江山の酒呑童子を退治したので有名な源頼光のお父さんです。



 東江寺から徒歩十分足らずのところに南蔵院があります。
 貞和四年(1345年)、在原業平が建てた業平塚(現在の業平橋)のかたわらに創られたのが始まりです。寛永年間(1624年-43年)、本所中之郷(墨田区吾妻橋)に移転。このお寺も関東大震災で罹災し、昭和四年にこの地に移転しています。




 山門を潜ると、本堂までまっすぐ伸びる石畳の参道。この参道が業平橋で、左右に延びる白御影の砂利が隅田川に見立ててあります。

 このお寺も南蔵院という院号より、縛られ地蔵のほうが有名です。
 そのいわれは「大岡政談」にあります。
 八代将軍吉宗の治世の享保年間。ある夏の暑い日のこと、日本橋のさる呉服問屋の手代が、荷車に反物を積んで南蔵院の前にさしかかりました。ここらで一服と境内の公孫樹の木陰で休むうち、ついウトウトと眠り込んでしまいました。目覚めたときには、反物が車ごとなくなっていたのです。
 訴えを承けた南町奉行所では名奉行の誉れ高い大岡越前守がじきじき取り調べに当たり、「寺の門前に立ちながら、泥棒の所業を黙って見ているとは門前の地蔵も同罪なり。ただちに縄打って召し捕って参れ」と配下に命じます。

 縄でグルグル巻きにされた地蔵は江戸市中引き回しの上、奉行所に引き立てられることになりました。
 野次馬連中はどんな名裁きが始まるかと奉行所に雪崩れ込みました。越前守は頃合いを計ると、門を閉めさせ、野次馬たちに「お白州へ乱入するとは不届至極。その罰として反物一反の科料を申し付ける」と鶴の一声。

 奉行所にはその日のうちに反物の山ができました。その反物の山の中に盗品があって、江戸じゅうを荒らし回っていた大盗賊団が一網打尽になった、というお話です。

 越前守は地蔵の霊験に感謝し、御堂を建立して盛大に供養したということです。

 以来「縛られ地蔵」として人々の信仰を集めるようになり、願い事をするときは縄で地蔵を縛り、願いが叶えば解く、という風習が生まれたのだそうです。

 ただし、「大岡政談」は中国・北宋時代の文官・包拯(パオチョン)の逸話と似た話が多く、史料的価値なし、というのが通説です。
 第一、寺に関することは寺社奉行の管轄で、町奉行が踏み込むことなどできません。いわんや仏像を縛って市中引き回しにすることをや、です。

 



 いまも縄でグルグル巻きにされている縛られ地蔵。
 願をかける人は画像下の願かけ縄(¥100)をいただいて、思い切りふん縛るのです。力が強ければ強いほど願いも叶う……とは、どこにも書いてありません。

 この地蔵尊を見たら帰るつもりでしたが、スタートが早かったので、十時半にもなっていませんでした。わずか700メートルと近いので、都立水元公園を覗いてみることにしました。
 



 水元公園の入口です。
 浅草の住民だった2001年の夏、何を見てこの公園のことを知り、何を見ようとしてきたのか、とんと記憶にはありませんが、当時、一緒に暮らしていた相方とこの公園にきたことがあります。
 記憶が曖昧なのは十年も昔だからというだけではなく、その日が問答無用の暑さだったせいもあります。私も相方も真夏に生まれているのに汗っかきで、公園に着いたときはすでに汗みずくでした。



 建物を目にしたりすると、断片的ながらも思い出すことがあります。正面入口にあった売店。あまりの暑さに耐え切れず、到着早々ここで缶ビールを買って呑んだことを思い出しました。



 園内にあるレストラン・涼亭。
 ここでも確かビール……。ビールのことは思い出しても、一体何を見にきたのだったか。依然として思い出せません。



 小合溜(こあいだめ)に架かる水元大橋。小合溜とは古利根川の一部が残されたもの。対岸は埼玉県三郷市です。



 の木(ハンノキ)。この公園のシンボルで、園内には千三百本も植えられているそうです。
 



 水元さくら堤。
 徳川吉宗が江戸川の外堤防として築かせたのが前身。桜が植えられ、桜土手として江戸庶民に親しまれていたようです。
 昭和二十二年九月のカスリーン台風で堤防は決壊。桜も枯れて、往時の面影が失われかけていましたが、昭和四十七年から桜の植樹が始められ、現在の姿に……。



 金町駅へ戻る道すがら偶然通りかかった金蓮院です。
 真言宗豊山派の寺院で、永正年間(1504年-20年)の創建。工事中で、山門から入ることはできなかったので、横合いからお邪魔しました。
 



 境内に聳えるラカンマキ(羅漢槇)。
 樹高は10メートル余、根周り3メートル、樹齢は四百~四百五十年といわれています。ラカンマキは高くても樹高5~6メートルという樹なので、10メートルを超えるのは非常に珍しいとされています。

→この日の参考マップです


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