桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2019年九月の薬師詣で・さいたま市緑区(2)

2019年09月09日 22時05分06秒 | 薬師詣で

 九月の薬師詣での〈つづき〉です。
 雨は熄みましたが、また降ってきそうで、
どうにもスッキリしない天気です。吉祥院をあとに、高野家の離れ座敷を目指します。



 地図には駒形公会堂とあったので、地区の集会所のようなもの、と思っていましたが、前を通り過ぎようとすると、たんなる集会所とは思えぬ風情だったので、思わず立ち止まってしまいました。確かに駒形公会堂という札が掲げられてはいますが、お寺の御堂のような建物です。左に説明板らしきものが打ちつけられていたので近づいてみると、もともとは福生寺という寺で、吉祥寺の末寺だったという旨が記されていました。ただ、合併によって浦和市がさいたま市の一部となったのは十八年も前の2001年のことですが、掲示は浦和市教育委員会のままでした。
 右側には墓地がありましたが、なるほどお寺ならではです。この画像でいうと、私は左奥のほうから歩いてきているので、真ん前を通るまでは右に写っている手水桶置き場や墓所などには気づきませんでした。

 


 駒形公会堂から高野家離れ座敷に向かおうとさらに歩みを進めると、玉泉院という掲示が目に入りました。足立百不動の六番札所。建物は目立たず、ここでも私は上の画像の左手奥のほうから歩いてきましたが、鰐淵から下がった鈴紐を目にしていなければ、おそらく通り過ぎてしまっていただろうと思います。



 玉泉院から歩くこと二十分。住宅地の中に藁屋根が見えたので、あら珍しや、と思いながら歩を進めると、そこが高野家離れ座敷でした。
 伝馬町の牢屋を脱獄した高野長英が隠れ棲んだところです。

 


 ふだんは閉ざされていますが、この日は幸い日曜日だったので、戸が開け放たれていました。



 この離れ座敷の持ち主は高野隆仙(1810年-59年)という人ですが、この人のことは今回初めて知りました。画像は奥州市ホームページから拝借。
 この地 ― 埼玉県北足立郡尾間木(現・さいたま市緑区大間木)に住んでいだ蘭方医で、高野長英の門人でもあった人です。たまたま苗字が同じですが、血縁関係はありません。

 文化七年(1810年)、大間木村の漢方医・隆永の長男として生まれ、長崎でオランダ医学を学びました。長崎へ行く前には江戸に出て、高野長英に蘭学を学んでいました。隆仙が残した七六二点という書籍は専門の医学だけにとどまらず、天文、茶道、華道、作庭など多岐にわたっているそうです。
 師の高野長英(1804年-50年)は長崎でドイツ人シーボルトに蘭学を学んだ町医者ですが、天保の飢饉のときには、じゃがいもや早そばの栽培法を著した「二物考」や「避疫要法」という疫病対策の書を著わすなど、活躍の場はたんに医療にとどまらない人でした。天保九年(1838年)には「戊戌夢物語」を著し、幕府の鎖国政策を批判しています。そのため幕府に捕らえられて、獄につながれることになります。これが渡辺崋山なども犠牲となった蛮社の獄です。
 弘化元年(1844年)六月、伝馬町の牢で火事が発生します。一説には、牢名主になっていた長英が牢で働く非人をそそのかして火をつけさせた、ともいわれますが、いわゆる「切り放ち」に乗じて脱獄。逃亡生活に入ったのでした。隆仙の自宅には「戊戌夢物語」の写本二冊が残されていたことから、師と仰ぐ長英の思想にも深く共鳴しており、離れ座敷に長英をかくまったのも、そういう経緯からでしょう。
 長英が滞在したのは五~六日といわれていますが、大宮・土呂の小島平兵衛宅に逃がしたあと、隆仙は拘引され、鴻巣の陣屋に留置されることになりました。そこでは石責めによる壮絶な拷問を受けたそうです。
 拷問は百日にも及んだといわれますが、隆仙は長英の行方について頑として口を割らなかったそうです。しかし後年、拷問によって受けた傷が再発し、安政六年、四十九歳でこの世を去ることになりました。

 


 高野家離れ座敷から水深薬師堂(足立十二寅薬師第十番)に到る直前、「赤山街道」という標識を掲げた家がありました。その家の前を通る道はいまはなんの変哲もない道ですが、江戸時代は赤山街道と呼ばれる主要道路だったのです。



 水深薬師堂に「到る直前」、と記しましたが、実際は到ることはできませんでした。
 現地で、タブレットにインストールしてあるグーグルマップを視ると、私が水深薬師堂につけておいた「」印と、まさに私がいることを示す青色の「」印が重なっていました。
 すなわち私は水深薬師堂にいたことになるのですが、どこをどう見ても、薬師堂らしき建物はなく、道端にはこの掲示板しかありませんでした。

 薬師堂の探索は諦めて、次の場所に向かおうとしたとき、また雷雨、それも折りたたみ傘では役に立たないような、かなり強い降り方でした。
 越谷街道と東浦和駅前を通る道路の交差点近くにマンションがありました。背後が駐車場になっていて、その駐車場への出入り口がトンネルのようになっているのを見つけたので、得たりや応とばかりに避難しました。

 十五分ほどで雷雲は去りました。四つ目にして最後の西谷薬師堂を訪ねる前に清泰寺に寄ることにします。
 前回(2016年三月の薬師詣で)は工事中で入れなかった、見性院の墓所があるのです。



 清泰寺本堂です。
 見性院は武田信玄の次女で、幼年時代の会津藩主・保科正之(幼名は幸松丸)を養育した女性です。
 江戸城北の丸に屋敷を与えられ、大牧村(現・さいたま市緑区東浦和)に領地を与えられていました。元和八年(1622年)に没すると、領地内にあったこの清泰寺に葬られ、のちに正之によって霊廟が建立されました。霊廟は倒壊してしまいましたが、その門扉だけが残されています。墓石は安政五年(1858年)に会津藩によって建立されたものです。




 三年前の三月に訪れたときに撮影した本堂です。工事中で、こんな感じでしたので、注意書きを無視して進んだとしても、入れたかどうかわからなかったのですが、入れないもの、と諦めて踵を返したのでした。



 今回は本堂左側から背後に廻ってみました。
 三か所にこんな柵がありましたが、三つとも一様にひっくり返っていました。多少の風ではひっくり返ることなどないだろうと思えるので、わざと横倒しにされていたのでしょう。
 墓域は頑丈な鉄柵に囲まれていて、あまたの墓石に混じって、見性院の墓らしきものが見えましたが、遠いのではっきりとわかりませんでした。



 見性院の墓です。近づくことができなかったので、さいたま市教育委員会のホームページから引用させてもらいました。



 入ったのとは別の口から出ると、こんな掲示板がありましたが、「県指定旧跡 見性院殿の墓所在地」と謳いながら、見学も参拝もさせないとは妙な寺です。



 清泰寺門前から三分。最後に西谷薬師堂(足立十二寅薬師第十一番)を訪ねました。
 ここも閉ざされていて、中に入ることはできませんでした。自治会館と地域の墓所が主体で、独立した薬師堂はなさそうでした。
 遠くから手を合わせ、今日、出発した東浦和駅に戻って家路につくことにしました。東浦和駅まで徒歩七分です。


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