桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2022年初薬師・大田区~川崎市

2022年01月12日 23時39分16秒 | 薬師詣で

‎ 大田区の城南養護学校というところに所用ができました。最寄り駅は京浜急行の雑色(ぞうしき)。 ‎学校を訪ねて用を済ませたあと、相手とは第一京浜沿いにあるレストランに行って食事。そこで別れて、今年最初の薬師詣でを始めました。
 最初、会う日時はできれば十二日、その代わり場所は私の都合で決めてもらって構わないということでした。大田区とか世田谷区というと、私が東京都民であったころでも、檜原村よりも馴染みのないところなので、二人の中間あたり、と考えもしましたが、十二日というと、薬師如来の縁日です。私の薬師詣では主として八日の縁日を選ぶことが多いのですが、八日に都合がつかなかったり、体調が思わしくなかったりしたときは十二日に変えることもあります。
 で、大田区の地図を開いてみたら、雑色駅近くには薬師如来をお祀りする寺院が二つもあります。多摩川が近く、渡れば川崎で、近いところにさらに三つも薬師如来をお祀りする寺院があります。これだけ揃っているなら、今年の私の初薬師は八日ではなく、十二日にしようと思いました。
‎  コロナ禍が多少なりとも緩み、都道府県をまたぐ移動の自粛が解除されたこともあるので、少々の遠出 ― すなわち長時間の電車利用を伴う行程でも許されるかな、と考えられたので、場所は私の都合で、と譲ってもらったのですが、雑色まで出向くことにしました。相手が恐縮この上なかったのはむろんのことであります。

 このところ薬師詣でに出かける日を除いて電車に乗ることはありません。



 松戸、上野と乗り換えて、品川で京浜急行に乗り換えます。京浜急行に乗るのは記憶にないほど久しぶりです。お昼近くの電車、しかも京浜急行は各駅停車に乗ったので、数えるほどの乗客しかいませんでした。



 品川から二十三分。雑色で降りました。



 所要を終えたのは午後一時半。雑色駅に戻って、今年最初の薬師詣でを始めます。
 雑色駅から七分。真言宗智山派の薬王寺に着きました。



 開創の記録は残されていませんが、宥範という僧侶による開山で、延宝五年(1677年)という寂年から、その近年に開創されたものと考えられています。寺伝では、この次に訪ねる安養寺の隠居寺として建立されたと伝えられています。昭和二十年の空襲で本堂・庫裡を焼失、現本堂は昭和三十五年(1960年)に落成。‎

 

 薬王寺からまた七分で安養寺に着きました。
 上の画像に写る石塔に示されているように、別名は古川薬師。



「新編武蔵風土記稿」によると、開山は永禄十一年(1568年)寂の永伝。
薬師堂は和銅三年(715年)、行基菩薩(667年-749年)が創建したと伝えられています。
 聖武天皇の時代、光明皇后の皇子誕生に際して乳が出なかったので、諸寺に祈願をしたが、その験がありませんでした。そこで行基に訊ねたところ、ここの薬師仏の霊験は著しく、銀杏の木を奉納すれば、たちどころに成就するという奏上がありました。そこで型のとおりに銀杏の木を奉納すると、無事乳が出て、喜んだ天皇は七堂伽藍を寄進することになったという言い伝えです。
 ただ、薬師堂建立から寺の創建まで八百年以上の隔たりがあります。七堂伽藍が寄進されたので、薬師堂だけでなく、寺として成立していたはずですが、その間のことはどうなのかよくわかりません。



 安養寺から多摩川はすぐです。雪を被った富士山を望むことができましたが、薄い霞がかかっていたので、肉眼では見ることができても、ブログに取り込んだ画像では見えるかどうか。



 六郷橋(第一京浜)で多摩川を渡ります。



 橋を渡り切ると、旅館兼茶屋だった万年屋跡を示す掲示板がありました。
 東海道を行き来する旅人だけではなく、厄年の男女が川崎大師参詣の途中に多数立ち寄ったので、とくに繁昌したといわれています。名物は奈良茶飯。「東海道中膝栗毛」にも出てきます。
 歌「お江戸日本橋」にも、

♪六郷あたりで川崎の まんねんや
 鶴と亀との米まんじゆう
 こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ

 と歌われています。



 万年屋跡前の道は旧東海道です。



 万年屋跡前から第一京浜をさらに進むと、真言宗智山派の真福寺。
 山門も通用門も閉じられていたので、門前で合掌し、あえてお邪魔することは避けました。
「新編武蔵風土記稿」によると、「
本尊薬師木の坐像長さ六寸許、左右に日光月光の二菩薩及十二神の像あり。各立像にて長六寸許、共に行基菩薩の作なりと云」」とあって、ここも行基作のようです。



 川崎競馬場前を通って行きます。



 真福寺から大師道を歩いて十二分、医王寺に到着。天台宗の寺院です。
「新編武蔵風土記稿」には「
開山を春光坊法印祐長とて延暦二十四年(793年)二月廿二日寂せし人なりと云。然れば宗祖傳教大師にまのあたり従ひし人なるにや。此後法燈たへず間宮豊前守信盛当所に住せし頃祈願所と定めしと云、今本堂七間に六間、本尊薬師木の坐像にて長一尺八寸許、脇士は立像にて長一尺八寸許、其余十二将神等の像あり」と記されています。

 次は今日最後に訪れる平間寺です。



 医王寺から十七分で着きましたが、最初は広い境内のどこに到着したのかまったく合点が行きませんでした。



 着いたのは偶然至真門という門前で、運のよいことに薬師殿はすぐ近くでした。

 

 薬師殿の薬師如来と薬師如来前のなで薬師。私は撫でませんでしたが、痛いところを撫でれば、平癒を祈念できるそうです。

 平間寺の建立は大治三年(1128年)。平間兼乗という武士がいて、武勇の士として名高い人でしたが、讒訴に遭って、尾張にあった領地を失い、諸国を放浪ののち、川崎に住んで漁業で身を立てていました。あるとき、海中へ網を投げ入れると、弘法大師の木像を引き揚げることになりました。兼乗はその木像を洗い清め、花を捧げて供養していましたが、ちょうど諸国を遊化していた高野山の尊賢上人という人がこの木像にまつわる話を聞き、 兼乗と力をあわせて建立、兼乗の姓をとっ名づけたのが、平間寺というわけです。



 帰りは境内を抜けて行くことにしました。八角五重塔です。



 大本堂。年明けも十二日目となると、それほどの混雑ではありませんでした。



 大山門をくぐって大師仲見世通りへ。



 川崎大師駅を目指して歩いていたつもりですが、着いてみれば、一駅遠い東門前駅でした。

この日の行程


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