桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2015年終い薬師・さいたま市見沼区

2015年12月08日 23時54分59秒 | 薬師詣で

 2015年十二月の薬師如来縁日です。今年最後の縁日なので、終い薬師です。さいたま市見沼区にある薬王寺を訪ねることにしました。
 見沼区で薬師如来をお祀りするお寺といえば、正法院、光徳寺、西福寺という三か寺があって、私はすでに去年十月八日の薬師詣でで参拝済みです。そのときになぜ今回行く薬王寺も参拝しなかったのかというと、同じ見沼区内でも先の三か寺の最寄り駅は大宮駅で、そこからバスに乗るしか行く方途がなく、今回の最寄り駅は東武線の七里駅と全然離れていた
からです。



 電車に乗る前に地元の慶林寺に参拝。お賽銭をあげて行きます。



 北小金から新松戸~南越谷(新越谷)~春日部と乗り換えて、東武野田線の七里で降りました。
 事前に地図を調べていたときは「しちり」と読むのだろうと思い込んでいましたが、電車が到着する前の車内アナウンスで「ななさと」と読むのだと知りました。



 今日の目的はさいたま市見沼区島町にある薬師堂参拝ですが、駅近くに大圓寺という曹洞宗のお寺があるので、先に寄って行くことにします。



「新編武蔵風土記稿」によると、「曹洞宗、大成村普門院末。鷲嶽山と号す。本尊正観音を安ず。開山陽巌宗春大永五年正月三日寂す。開基は太田新六郎資高と云。法名大崇院昌安道也居士、永禄十一年八月二十三日卒す。又本堂に陽光院芳林妙春大姉、永禄十年三月八日と記せし碑あり。是太田源五郎康資の室にて、共に開基大檀那と称す。かかる故ある佛刹なれど、正保年間回禄の災にかかり、記録を失ひたれば其由緒詳ならず」とあります。

 出発したのが零時半と遅かったので、七里駅に着いたときは二時を過ぎようとしていました。冬の太陽は大きく傾き、いっぺんに冷気が迫ってきます。急いで薬王寺を目指すことにします。
 庵に戻ってから気づいたのですが、曹洞宗のお寺であれば、歴住の墓所を訪ね、参拝するのが私の流儀です。ところが、この日は夕方が迫っていたので気が急かされていたのでしょう。すっかり忘れていました。




 七里駅近くまで戻って東武線の踏切を渡り、しばらく歩くと、砂利道が現われました。このあたりはずっと住宅街がつづいています。しかも真っ直ぐにつづく道はなく、突き当たっては左か右かと惑わされます。
 しかも地図には目印になるようなものがないので、歩みが進むのに連れて、どのあたりを歩いているのかわからなくなってしまいました。店かマンションでもあれば地図に載っていて、このあたりを歩いているのか、と得心できると思うのですが、あいにく戸建ての住宅ばかり。果たしてちゃんと辿り着けるのだろうかと訝りながら歩いて行きます。




 実際は大圓寺から十六~七分ぐらいで着くことができたのでしょうが、道が突き当たる都度立ち止まって地図を開き、右か左か、どっちへ行けばいいのだろうかと訝りながら一歩を踏み出すので、二十分以上要して、最後の突き当たりに到達しました。
 小さな林があって、
冬枯れの木立の奥にポツンと御堂があるのが見えました。




 近づいてみると、扉が開け放たれ、人が集まっているのが見えました。



 護摩が焚かれて、すでに法要が始まっていました。 
 薬王寺の創建年代等は不詳ですが、「新編武蔵風土記稿」には「新義眞言宗、中野村正法院(去年十月の薬師詣でで参拝したお寺です)末、瑠璃山と號す、本尊不動を安ず。山王社。金山権現社。薬師堂。霊験ありとて、近郷よりも信仰のもの多し」とあります。
 この薬師堂の右手に本堂があります。



 円空作の薬師三尊と十二神将がありますが、薬師堂には祀られていないそうです。盗難に遭う恐れがあるので、本堂に移されているということです。
 画像は薬王寺公認ブログから拝借しました。

 どのような歴史があるのか、いまのところはよくわかりませんが、武蔵古跡薬師三十二箇所霊場というものがあって、この薬王寺は第四番とされています。「武蔵古跡」といっても、武蔵国全体を示すのではなく、埼玉県上尾市を中心とした地域にある三十二のお寺や御堂です。いつごろ、どのような基準で選定されたのか、何もわかりません。2012年五月の薬師詣でで参拝した上尾の密蔵院薬師堂は第一番になっていますが、同じ日に参拝した遍照院はその中にはありません。



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