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桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

久しぶりの散策(2)

2010年05月27日 12時12分44秒 | のんびり散策

 久しぶりに散策に出ました。
 といっても、十日以上も前、十六日の話です。
 ブログを更新しようという気がなかなか起きず、更新は今日まで延ばし延ばしになっていました。
 前の散策(五日)からその日まで、二度ハローワークへ出かけたのを除いて、また家に引きこもっていました。
 何日も引きこもったままで、ときおりパソコンに向かう以外は何もしないのに、いつの間にか日が暮れて、愉しい夢とは無縁の夜がやってきます。
 もうダメかもしれぬと思う日と、なんとなく希望が湧いてくるような日の繰り返しで、大波小波に揺られながら、一週間や十日はあっという間に過ぎるのです。

 散策に出ようという気になったのは、翌月曜日に面接を控えていたので、足慣らしをしておこうと考えたからです。どこを目指すという目標もありませんでしたが、足は自然と北に向かいました。
 ずっと歩いていなかったので、脚にガタがきているのではないかという予断に反して、歩き始めると、結構快調です。
 少し風の強い日でした。
 ふと、風薫る五月という言葉が浮かびましたが、私の気持ちは遙か遠いところをぼんやりと眺めているだけで、そういう風流とは縁遠いところにあります。

 いつものように大谷口歴史公園前を通り、廣徳寺前を通過。道は徐々に上りになり、やがて下って、また上りになります。二つ目の坂を上り切ったところが松戸七福神の一つ弁財天の祀られている華厳寺です。

 二か月近く前、杏(アンズ)の花を見に行ったときはこのあたりで右に折れて、帰りの行程に入りましたが、この日はとくに疲れも覚えていなかったので、さらに足を延ばすと、小公園の中に幸田(こうで)貝塚跡という説明板がありました。



 六千年前、縄文時代前期の遺跡だそうです。といっても、説明板が一枚建てられているだけで、遺跡らしきものは何もありません。
 家に帰って調べてみると、結構大規模な集落(百六十軒の竪穴式住居を発掘)で、縄文時代の土器研究上きわめて重要な資料になるという関山式土器群も多数出土したようです。
 出土品は松戸市立博物館に所蔵されているのですが、なぜか常設展示はしていないので、簡単には見られないものらしい。松戸市自慢の所蔵品のはずなのに、市民が気やすく見られないとは……。

 公園の少し先は斜面になっていました。
 斜面を降りて右手に歩くと、前に訪れた前ヶ崎城址に出ます。

 


 途中に幸田湧水を見つけました。
 一応池になっていますが、前に見た宮ノ下湧水と比較すると、淀んでいて水量も乏しく、清涼感はイマイチです。



 前ヶ崎城址へは行かないことにして、富士川に架かる橋の上で少し涼んでUターンしました。



 ラベンダーかと思って近づいたら違いました。畑一面に咲いていましたが、何の花か。

 六千歩……。
 一時間強歩いたところで、久しぶりに頭がスッと涼しくなるような感覚を覚えました。ほんの刹那的な貧血症状です。
 家にこもっているときは静かにしているので、こういう感覚を覚えることはありません。先に下った台地を上っているときでもありました。立ち止まって様子をみましたが、それっきりなんでもないようです。

 帰路も廣徳寺脇を通ったので、やっぱり参拝して行くことにしました。
 先日、偶然開山忌の賑わいを見たのが夢のようで、この日はまた無人の境内です。
 お賽銭を上げたあと、本堂左にある不昧軒という集会所の裏手へ……。開山忌のときはここで茶菓の接待があったようですが、この日は入口も閉じられていて、もちろん無人。
 裏手には高台があり、石段を上ると、歴代住職の墓碑(歴住碑)がありました。



 開山は大路一遵大和尚と読めました。「遵」の音読みは「ジュン」もしくは「シュン」ですから、「いちじゅん」か「いっしゅん」か。
 開山忌に出会ったときから、誰が開山であったのか気になっていましたが、「廣徳寺&松戸」をキーワードにWebで捜しても、行き当たりませんでした。
 裏に回ると、このお寺は寛政十二年、明治二十二年、大正十二年と三度の火災に遭って全焼しています。そのため第十一世から第二十四世までの住職の名がわからないという旨が彫ってあります。

 名前がわかったので、再度検索してみたら、ヒットしました。
「たいろいちじゅん」と読むのです。ただし、Webでは僧侶としての事跡が取り上げられているのではなく、長寿の人としてでした。
 なんと! 生まれたのは応永六年(1399年)、示寂は永正十五年(1518年)というのですから、百二十歳まで生きたことになります。
 時は室町時代。驚くべき長寿の人です。

 廣徳寺が開かれたのは寛正三年(1462年)です。大和尚六十四歳のとき。
 普通ならすでに隠棲している年齢です。住職を務めても、精々十年がいいところ……と思われるのに、なんと五十年以上も寺を守ったことになるのですから、恐るべきことです。

 静岡県袋井市に可睡斎というお寺があります。曹洞宗の専門僧堂がある古刹で、東海一の禅道場といわれるところです。
 袋井市のホームページを視ると、このお寺の開山(1394年)が大路一遵、と紹介されていますが、大路大和尚の生年と開山の年の辻褄が合いません。
 伊藤正士さん(故人)という方がつくられた「遠州史跡めぐり」というホームページによれば、開山は如仲天ぎん(にょちゅうてんぎん)大和尚で、大路大和尚は五世に当たると記載されています。肝心の可睡斎のホームページには開山のことは何も記されていません。 

 この日はもう一つ初めての場所に足を向けました。大谷口城を築いた高城胤吉所縁の弁財天が祀られた弁天台です。
 参道入口の隣にあって、道路から微かながらも見えるのですが、境内を経由しないと行けません。

 


 石の扉で閉じられていて中を見ることはできませんが、ご神体の大きさはわずか一寸八分(約4センチ)の高さといわれています。
 石塔左側に、根木内から大谷口に城を移したとき、弁財天もここに移したという銘が刻まれているらしいのですが、風化しているのと場所が暗いのとでまったく読めません。

 ちょっと疲れて帰宅。
 翌日出向いた面接は不採用。履歴書を郵送しておいたところからも面接はしない、という連絡があって、また鬱ぎ込みました。
 気の持ちよう一つ、とは考えるものの、身体の調子もどんどん悪くなって行くようです。

↓この日歩いた場所の地図をつけました。
http://chizuz.com/map/map69495.html


久しぶりの散策

2010年05月06日 23時38分00秒 | のんびり散策

 こどもの日。久しぶりに外に出ました。
 何日ぶりの外出になるのだろう。
 体調が思わしくないといっても、出かけられないほどひどくはなかったのですが、なんか嫌だな、面倒だな、と感じているうちに一週間が過ぎ、十日が過ぎると、何もかもが本当に嫌になってきたのです。
 家にはろくな食べ物もないのですが、買い物にも行きません。
 通院の約束があった一日、気が進まないながらも、行かねばならぬと嫌々ながら出かけただけで、約束がないのを幸いに、あとはずっと家に引きこもっていました。

 辛うじて外と繋がっているといえば、私が気鬱になっていることを心配してくれたメル友の一人が、私を励ますメールを送ってくれていたことだけでした。
 新聞と電気は自動引き落としにしてありますが、水道、ガス、電話、携帯電話はコンビニに払いに行かなければなりません。携帯電話はすでに支払期限がきていて、通じなくなりました。電話をくれる人もいないので、そのまま放ってあります。

 気鬱ですからじっと坐ったまま、思いを巡らせるしかありません。すると、先には何一つ愉しみもないように思え、もうそろそろイイカナ、とも思いかけました。
 イイカナと思えば、やり残してしまった痛恨事が甦ってきます。

 その一つは浅草から市川に移り住むとき、家庭菜園を借りてジャガイモを栽培をしようと思っていたところ、毎晩帰宅が遅い上に、いつ日曜出勤のお呼びがかかるかわからないという勤め先だったので、何もできなかったということです。
 以前の仕事で知り合った人(農業)がたまたま近くにいて、百坪ぐらい貸すといってくれていたのですが、三~四年家庭菜園で肩慣らしをしてから、と考えたので借りるのは先送りにしていました。
 百坪耕し、一応セミプロといえるぐらいになってから、種芋を持ってアイルランドに渡るという夢も断たれた、と思うと涙が滲んできます。
 何歳になろうと夢を諦めるな、というものの、この夢に関してはそろそろ年貢の納め時がきていると思います。

 こんな鬱屈した状態に陥ったのにはもちろん理由があるのですが、理由を書けば、人の悪口になるだけなので、一文の得にもならない。ただただ自分のひ弱さを知った、ということです。

 五月に入って急に暑くなっていました。場違いに感じるような強い陽射しです。おっかなびっくり外に出ました。
 散策に出るといっても、とくに行きたいところがあるわけではなし。ぬうぼうと出て、人から見れば夢遊病者が迷い出たような足取りで歩きました。
 動かないので腹が減らず、ほとんど食事をしていません。一日にポタージュスープ(それもインスタントの)二杯だけという日もありました。十九年間つけていた日記もつけなくなっていたので、どんな食生活を送ってきたのか、記憶もあやふやです。

 足は自然に廣徳寺という曹洞宗のお寺に向いていました。
 途中に大谷口城趾があります。
 早いものでもう半年近く経ってしまいましたが、大谷口城趾は胃潰瘍で入院していたとき、見舞いにきてくれた友を案内したところです。
 当時、私はヨタヨタとしか歩けませんでした。パジャマ代わりのジャージの上下にコートを羽織って出ていたので、まるで介護老人を連れて歩いているようだ、と友が冗談をいっていたのを思い出します。

 わずか半年前のことに過ぎぬのに、私にはずっと昔のことのように思えます。
 その日は私にとっては風の冷たく感じられる日で、貧血のせいもあり、手が氷のようでした。友がその手を包み込んで、自分のコートのポケットに導いてくれた、その温かさが懐かしい。
 当時に比すれば私の元気は恢復していて、さすがにヨタヨタとはしていませんが、その代わり、一緒に歩いてくれる人もない。

 何があったのか、その友とは連絡が少しずつ間遠になり、完全に途絶えて一か月になろうとしています。
 私のかたくなな性格がいよいよ疎んじられたのか、あるいは電話もできないような重大な病気に罹っているのか。気鬱なので、いろいろよからぬことも考えてしまいます。
 眼もいちだんと悪くなったように思えます。樹々はいつの間にか青々と葉を茂らせて、躑躅(ツツジ)も満開だというのに、何を見ても感動が薄い。

 蹌踉と歩くうち、廣徳寺の門前に到っていました。
 いつ訪れても無人だった境内に、この日は人の気配がありました。そればかりか、ときおり太鼓と鉦の音が聞こえてくるようです。
 幻聴か。
 ついにそっちもきたか。
 一瞬そう思ってしまいました。

 


 参道にある香椿(チャンチン)の樹。別名唐変木。
 中国の中北部原産の落葉高木で,若葉が赤いという妙な樹です。この若葉は中国では食用。香椿炒鶏蛋といって、いまごろまでの若葉を摘み取り、卵と絡めて炒めるのだ、と私の勤め先にいた中国人が教えてくれました。



 参道を進んで行くと、太鼓や鉦の音の正体がわかりました。

 

 
 いつもは閉じられている本堂の扉が開かれ、大勢の人がいると思ったら、偶然開山忌だったのです。唱えられていた般若心経を聴きながら賽銭箱へ。
 みな前を向いていて、私には気づきません。私だけが場違いなところへきている、と思ったり……。



 境内に咲いていた石楠花(シャクナゲ)。石楠花は私にとって悲しい思い出を思い出すだけの花です。

 歩けるものなら廣徳寺よりもっと先を目指そうと思っていました。杏(アンズ)の花を見に行った少し先に幸田(こうで)湧水という湧き水があるのです。
 しかし、久しぶりの外出は廣徳寺までのわずか二十分で疲れ果ててしまいました。

 昨日、重曹を使って台所のシンクをピカピカに磨き上げました。床もトイレも洗濯機や冷蔵庫の後ろも、掃除するところはいっぱいあるのですが、とりあえずはシンクだけ。

 あ、そうそう。私、先月で前の勤め先を辞めました。明日、次の仕事の面接に行きます。


流山散策

2010年04月12日 16時59分21秒 | のんびり散策

 最高気温が20度、24度と二日つづきの初夏の陽気から一転して、今日の予想最高気温は9度だとか。おまけに雨。そして明日はまた19度だ、と。
 こんなにコロコロと変わる陽気に、私の神経はとてもぢゃないがついて行けず、風邪が治りそうな様子はまったく窺えません。

 昨日曜日の風邪の状態は土曜日よりはちょいとマシかという程度でした。午前中、少し厚着をして買い物に出たら、外はかなり暑いと感じたのに、家に引きこもると両肩のあたりが嘘寒いのです。気分も晴れやかではありません。

 今回の風邪は少し妙です。ボヤーンとした感じは明らかに風邪です。鼻詰まりはあるけれども、洟水やくしゃみはあまり出ず、咳だけ出ます。それも、起きているときはあまり出ないのに、眠ると出る。
 ゴッホッホとやって、そのたびに目覚めるので、熟睡できていません。一日じゅう意識朦朧寸前という状態で過ごしています。
 横にならなければ耐えられないという症状なら、おとなしく寝ていたかもしれません。そうでないところが厄介なのです。かといって、起きてもやることがない。正しくいえば、何かしようという気力が湧かない。

 で、出かけるか、ということになりました。
 どこへ行くと決めた外出ではありません。新松戸の駅に向かって歩いているうちに、流山へ行こうと思いつきました。
 土曜日も流山に行っていますが、そこは歩いて行けたところ。この日は電車を利用しないと行けない、もっとディープな流山です。

 ディープな流山へは新松戸に引っ越してきた直後に行ったことがあります。
 住まいを捜していたとき、流鉄が走っているのに興味を惹かれ、不動産屋さんの女性事務員に、「あの電車の行く先はどんな街か、何があるのか」と訊ねたら、しばらく考えたあと、「イトーヨーカドー……」という答えの返ってきた街です。

 とくに目的もなくブラブラと歩いていたら、「誠」と染め抜かれた新選組の羽織を着た数人の男女がいきなり現われたのでびっくりしたり、腹が減ったので店を捜したが、開いている店がどこにもなくて苛々させられたり……。

 


 幸谷(こうや)駅から流鉄に乗りました。
 四つ目、乗車時間わずか九分にして終点の流山です。「関東の駅100選」に選ばれた駅です。イトーヨーカドーがあるのはここではなく、一つ手前の平和台という駅でした。



 最初に流山市立博物館へ行ってみました。流山駅から六分ほど歩いた丘の上にあります。



 入口には近藤勇と土方歳三のパネル。ここ流山は近藤が最後の陣を敷いた地です。設営準備中のようで、見られたのはこのパネルだけ。



 流山といえば味醂(みりん)も欠かせない。小林一茶の友人でもあり、パトロンでもあった秋元双樹は味醂開発者の一人でもありました。

 出版物はいろいろ出しているようですが、無料でいただけるようなパンフレット類は一つもありませんでした。

 博物館を出たあと、市内を散策。
 広小路と名のついた通りから路地に入りました。近藤勇陣屋跡のある通りでした。陣屋跡周辺には今日も新選組がいるのが見えます。
 手前に閻魔堂があったので、陣屋跡を見に行く前にちょっと寄り道。



 閻魔堂墓所にあった金子市之丞と遊女・三千歳の墓です。
 市之丞は明和六年(1769年)、流山の生まれ。江戸の義賊だったといわれていますが、本当に義賊だったかどうかは不明。本当だったとすれば、鼠小僧より先輩になります。
 江戸吉原の遊女・三千歳とは恋仲で、死後離れたままでは可哀想だと墓を隣に持ってきたそうですが、三千歳は市之丞の妹だったという説もあります。

 当時、巷間の話題をさらっていたのは確かなようで、講談の「天保六花撰」、歌舞伎の「天衣粉上野初花(くもにまごううえのはつはな)」にも登場させられていますが、どちらも主役は河内山宗俊と直侍で、市之丞はどう見ても二人の引き立て役でしかありません。



 閻魔堂とは目と鼻の先に近藤勇の陣屋跡があります。
 当時、長岡屋という酒造家であったこの地に近藤勇は陣営を敷きました。たちまち新政府軍に知れることとなって、包囲されます。すわ激突……と思われましたが、戦争にはなりませんでした。一説では、町が戦火に包まれるのを嫌った近藤がみずから出頭したとも、別の説では奸計に乗せられて、捕縛されたとも。
 その日は慶応四年(1868年)四月三日。近藤と土方歳三、今生の別れの日となりました。
 近藤は板橋の本営まで連行されて斬首。
 ともかく戦争は回避され、町も戦火を逃れることができました。



 陣屋跡で出会った二人。レンタサイクル(¥
300)を借りて観光中でした。

 折から世は歴女ブームです。ところが、私が市内を歩いている間、出会ったのはこのおぢさん二人組と若い夫婦者らしきカップル四組だけ。
 近藤はさておくとしても、土方歳三は歴女の人気ランクでも上位の人です。せっかくの好素材があるのですから、何かPRのやりようがあると思えるのですが、市も博物館も、市内の店々も、付和雷同せず、と決めているのでしょうか。

 新選組の羽織りを着た若い女性が「北総新選組流山案内」というパンフレットをくれました。混ぜっ返すつもりはありませんが、流山に駐屯したのは甲武鎮撫隊という名で、厳密にいえば新選組は自然消滅したあとです。
 裏面が地図になっていたので、見てみると歴史的建築物として呉服屋・新川屋と同・ましやが紹介されています。

 


 新川屋はくるときに見ていた店です。建物は古そうですが、前面が改築されていたので、何やらいわくはありそうな……と思いながら通り過ぎていました。弘化三年(1846年)の創業。建物は明治二十三年の建築。

 ましやは少し新しく安政六年(1859年)の創業。こちらは前面がさらに大幅に改築されています。
 昔からの建物が見えるようにしておけヨ、と赤の他人がいう筋合いではないが、松戸宿でも千住宿でも、そういう形で遺されている建物があるのです。

 このあたりの地名は流山市加(か)。無患子(ムクロジ)の観音寺がある木(き)の前身は未だわかりませんが、こちらは市制が布かれる前は加村といったようです。

 歩いているうちに腹が減ってきました。体調はあまりよくないけれども、空腹を覚えるぐらいだから、それほど悪いとはいえないのでしょう。
 ところが、前に訪ねたときと一緒で、開いている店が一軒もありません。コンビニでもあれば、と注意をしながら歩いても、コンビニすらない。
 ましやの先で右に折れ、流山街道に出たところで、セブンイレブンを見つけたので、サンドイッチとレモンウォーターを買いました。

 レジ袋を提げたまま、本行寺、光照寺と巡りました。腹が減っているので、一刻も早くサンドイッチを頬張りたいところですが、腰を下ろして小休止できそうな場所がありません。



 お寺にしては珍しく「関係者以外立入禁止」と注意書きのあった光照寺。
 そういうことなら入りませんが、敷地外から見るぐらいは自由でしょう、と思って近づいてみると、急に強い風が起きて、本当の花吹雪になりました。
 あまりにも見事だった(花吹雪が)ので、つい二、三歩……いや、十歩ぐらいだったか、無断進入を試みてしまいました。

 このお寺を目指して県道柏流山線を歩いていたとき、谷を隔てた向こうに桜山が見えていました。光照寺をあとにしたところでUターン。
 辿り着いてみると、結構見応えのある桜でした。しかし、公園の名は平和台1号公園とちょっと冴えない。
 ベンチがあったので腰かけ、やっとサンドイッチにありつくことができました。ホッと一息ついたのも束の間、風はますます強くなり、桜吹雪はもはや風流という段階を超越しつつありました。私の身体もいっぺんに冷えてきてしまいました。



 補遺
 北総新選組のキャラクターは「しもうさ」という兎です。もちろん「誠」を染め抜いた羽織を着、鉢巻を締めています。可愛いもの好きの私は気に入って、ここに紹介しておきたいと思ったのですが、もらったパンフレットの印刷がお世辞にも上等とはいえないので、我が庵のスキャナではきれいに取り込むことができませんでした。
 諸君の活動はボランティアなので、致し方ないか、とちょっぴり残念に思っているところです。


ムクロジ(無患子)収穫

2010年04月04日 09時57分58秒 | のんびり散策

 昨日、流山市内の観音寺を探訪し、ムクロジ(無患子)の実を収穫してきました。



 観音寺手前の荒れ地で見たツクシ(土筆)。
 まだ採りごろ、食べごろです。



 我が庵を出てから徒歩四十分で観音寺に着きました。
 さて、目指すムクロジの樹は? と見渡すと、前回訪問した赤城神社にあったものと同じ標識があって、容易に見つけることができました。
 樹高は10メートルぐらい。北上尾・龍山院の古木とは較べるまでもなく、赤城神社の樹よりも若そうです。
 その代わり、枝にはまだ無数の実が残っていました。



 地面にもいっぱい落っこちていました。思わぬ大豊作(?)に、私は思わず小躍り。腰をかがめて拾い始めました。
 果実でいうと、蔕(へた)のところが爆ぜて落下するようですが、先日の強風のせいか、小枝ごと飛ばされたらしきものもありました。拾っていたらキリがないので、十四個で打ち止め。
 じつはキリのいいところ、十五個でやめたつもりでした。しかし、家に帰って何度数え直しても十四個だったのです。



 ツワブキ(石蕗)。
 弘法大師一千百五十年御遠忌報恩塔の前にありました。ムクロジの葉が茂るころには日陰になりそうです。



 観音寺本堂。
 真言宗豊山派のお寺です。創建は江戸時代初期とだけ伝えられて、年代はつまびらかではありません。



 観音寺の隣にある香取神社の参道です。
 周辺はのんびりとした田園地帯でした。ベートーヴェンの「田園」のメロディを口ずさみながら歩きます。



 江戸川の堤防は目と鼻の先。遠くから眺めると、菜の花が黄色い絨毯を布いたように咲き誇っていました。

 観音寺があるあたりは流山市「木(き)」という変わった地名です。江戸川沿いに北のほうへ行くと、「加(か)」というところがあります。つい「く・け・こ」もあるかと思いますが、そういう駄洒落のようなことはない。
 合併して流山市ができるまでは「木村」とでも呼んでいたのでしょうか。いまのところ調べがついていません。



 観音寺から前回訪れた赤城神社までは江戸川の堤防添いを歩いて三十分。
 道は流山橋のたもとで切断されて、車の通行量が多い道を横断しなければなりません。道路添いの桜はちょうど満開でした。



 赤城神社の手前に流山寺がありました。
 我が宗旨・曹洞宗のお寺。流山七福神の一つ大黒天が祀られていました。



 赤城神社の大注連縄です。
 前回とは違って陽射しがあったので、クローズアップしてみました。



 赤城神社のムクロジです。
 根元で二股に分かれています。観音寺のものとは樹形が違うような……。

 


 赤城神社の別当・光明院本堂横にあるタラヨウ(多羅葉)の樹です。
 葉を裏返して爪先や爪楊枝などで字を書くと、いつまでも消えずに残っているとのこと。
 まだ紙のないころ、インドでは経文を遺しておくのに、バイタラジュ(貝多羅樹)というヤシ科の樹の葉が用いられたそうです。法隆寺には世界最古といわれる貝多羅樹般若心経写本(八世紀後半)が伝えられています。葉っぱがその樹に似ていることから、多羅葉と名づけられたらしいのですが、こちらはモチノキ科。
 どうやら葉書という言葉はこういうことが語源らしい。

 手の届きそうな葉の裏側は、すべて先人が何かを書き込んでおりました。裏返しにした一枚には病気平癒の願。その他、縁結び、合格祈願などなど。絵馬を奉納するようなものです。
 葉先を摘んだ私の手に握られているのは、隣の赤城神社で引っぺがしてきたムクロジの樹皮です。



 光明院から一茶双樹記念館の前を通って、前回も訪れた長流寺へ。こちらに祀られている流山七福神は恵比寿神。
 前回はここから流鉄の平和台駅に出ましたが、今回はJR南流山駅に出ました。

 以下はまったく偶然の話。
 昨日は陽射しこそありましたが、私にとっては鬱陶しいと感じられるだけの風があって、ときどき強く吹いていました。
 ところが、観音寺に着いたときには、不思議とピタリと治まったのです。感謝の意をこめてお賽銭をあげました。
 そこから江戸川堤防を経て庵に帰るまで、ほとんど無風状態でした。庵に帰ってしばらくしたらまた風が出て、急に冷え込みました。
 今日は(昨日の段階の)天気予報が外れて、薄ら寒い曇り空。

 


 昨日収穫してきた無患子の実。全十四個の全貌です。
 採ってきたときのままをカメラに収めましたが、凹んだところの汚れを洗い落とし、柔らかい布で磨くと、まるでプラスチックでつくった飾りのようになって、とても自然のものとは思われなくなります。

 樹皮も引っぺがして盗ってきました。
 左上=友人が送ってくれた奈良・春日大社のもの。右上=北上尾・龍山院。左下=観音寺、右下=赤城神社。

 春日大社の樹齢は不明ですが、同大社のホームページで画像を見る限りは充分に古木です。龍山院は三百年。ともに樹皮が厚い。観音寺と赤城神社はまだ若いようで、薄いのです。
 実はこんなにあっても仕方がないので、連絡のつけられる方がいらっしゃればお分けします。ただし、発芽するかどうか保証の限りではありませんから、保証書はつけておりません。
 どうしても樹がほしいという方は↓
http://shop.yumetenpo.jp/goods/d/kiyotaki-nursery.co.jp/g/PMU0003/index.shtml


↓今回の歩いたところの参考マップを付け足しました。
http://chizuz.com/map/map67168.html


無患子(ムクロジ)に会う(2)

2010年03月29日 23時27分48秒 | のんびり散策

 高崎線は行き帰りとも電車のくるタイミングが絶妙だったのに、京浜東北線と武蔵野線は接続が悪く、大宮と南浦和で待つことそれぞれ十分ずつ。新松戸の二つ手前・三郷駅に着いたのは午後三時近い時間でした。
 馬橋・萬満寺の仁王尊股くぐりは午後四時までです。
 あと一時間では観音寺と赤城神社の二か所を巡る時間はありません。一つだけに絞っても間に合わないかもしれない。
 といいながら、春秋の例祭と正月と、年に三回しかない股くぐりと、来週でも再来週でも見に行ける二本目のムクロジ(無患子)と、どっちを優先するかといえば、むろん無患子(ムクロジ)のほうです。

 

 三郷駅で降りて江戸川を渡ります。堤には一面の菜の花。ツクシ(土筆)も見つけました。

 歩行者と自転車専用の橋のたもとに立つと、江戸川の彼方、左前方にこんもりと樹の繁った小山が見えました。ムクロジがあるという赤城神社です。

 伝承では、この小山はかつて洪水が起きたとき、群馬県の赤城山の山体の一部が流れてきてここに流れ着いたものだと伝えられています。流山という地名も、そのことに由来するといわれ、付近の地名も流山市流山。

 あるいは、その大洪水のときに、上州赤城神社のお札がこの小山に流れ着き、お祀りしたので赤城神社とした、という説もあります。
 赤城神社のある赤城山のカルデラ湖・大沼から流れ出る沼尾川は利根川の支流です。江戸川はかつての利根川ですから、こちらのほうがリアリティがあります。

 観音寺は橋を渡ったあと、赤城神社方向とは逆に、道を右に折れなければなりません。右へ行くか左へ行くか。寒風に吹かれて川を渡りながら、観音寺訪問は次の機会、と決めました。



 時間的に際どい、といいながら、お寺があれば寄らないわけにはいきません。ことにこの流山寺は我が曹洞宗のお寺ですから、なおさらです。



 本堂前には流山七福神のうち、大黒天が祀られていました。



 三郷駅から徒歩二十分で到着。赤城神社の大注連縄(しめなわ)です。
 長さ10メートル、太さ1・5メートル、重量700キロ。毎年十月初めに氏子たち総出でつくられるのだそうです。



 参道途中にあったムクロジの樹。
 向こう側に隠れている説明板がなければ、これがムクロジだとは気づかず、通り過ぎてしまうところでした。



 こちらは先に見てきた北上尾・龍山院のムクロジです。樹齢が格段に違うようだとはいえ、まるで似て非なるもののように見えます。
 木肌は同じはずですが、私には違うように感じられます。まあ、人間でも二十歳の肌と六十歳の肌は同じように見えて、じつは違うので、素人の私には違って見えるのかもしれません。
 しかし、樹齢によって木肌が違って見えるというのでは、観音寺に行ったときに、説明板でもなければ見つけられる自信はありません。
 赤城神社の説明板には、ムクロジの実を見つけたら持ち帰ってください、とありました。そんなことが書かれているので、みんなに拾われてしまうのか、ここでは収穫ゼロ。



 この熊笹は上州赤城山の熊笹と同じ種類なのだそうです。
 イネ科の植物ですから、洪水とともに種が流されてきたのか、あるいは本当に山の一部が流されてきたのか。



 赤城神社。



 赤城神社の麓にある真言宗光明院。
 本堂は改修工事中で、がらんどうでした。



 光明院境内にある秋元双樹夫妻の墓。
 秋元双樹、本名は三左衛門(1757年-1812年)。流山の醸造家の五代目で、家業のかたわら俳句をたしなみ、小林一茶のパトロンでもありました。



 一茶と双樹の交友関係が深かったことを記念して建てられた一茶双樹記念館です。
 先を急ぐので、写真だけ撮らせてもらって、前を通過。



 長流寺。慶長十二年(1607年)、開山の浄土宗のお寺です。
 伊勢の人・覺譽というお坊さまが東国布教のおり、ここに草庵を結んだのが始まりと伝えられていますが、天保七年(1836年)十月の火事で全焼。再建されたのは元治元年(1864年)。



 長流寺に祀られている流山七福神のうち、恵比寿天。



 長流寺境内から眺めた赤城山(赤城神社)です。右の青いシートは改修中の光明院本堂。



 馬橋へ行くため、平和台駅から流鉄に乗りました。



 通勤の行き帰りには必ず越えなければならない流鉄の踏切で毎朝見ている電車ですが、乗るのは二度目。



 二両編成の二両目に乗ったら、誰もいませんでした。
 乗客の大部分は平和台から三つ目の幸谷駅で降りて、JR(新松戸)に乗り換えるため、改札口に近い先頭車両に集まっているのです。

 馬橋到着は十五時五十五分。仁王尊股くぐり終了まであと五分。
 平和台駅で電車を待っているときから間に合わないのはわかっていましたが、時間を見るためにコートのポケットから何度も携帯電話を出していたので、同じポケットに入れていた切符を落としてしまったようです。流鉄はスイカに対応していないので、切符を買わなければならないのです。
 改札口に到るまでに、立ち止まってポケットをまさぐること数分。いくら捜しても見つけられず、もう一度百九十円也を払うしかない、と諦めたとき、ちょうど四時となりました。



 馬橋駅から萬満寺まではセカセカと歩いても、およそ五分かかります。私が着いたときにはすでに参詣人の姿はありませんでした。
 山門の向こうに屋台の青テントが見えますが、商売人たちも帰り支度をしていました。



 萬満寺本堂。



 本堂側から見た中門。ここに仁王尊がおわします。

 無病息災が叶うという股くぐりはできませんでしたが、ムクロジに会えたこと、その実を二つも得られたことで、私には充分に価値のある休日になりました。

 さらにもう一つうれしかったこと……。
 馬橋駅で料金を払おうとしたら、買った切符の金額を訊かれ、答えが正解だったからか、お金をとられなかったことです。
 駅員の名札をちゃんと見ておけばよかった。
中気除不動尊霊場


無患子(ムクロジ)に会う(1)

2010年03月28日 23時51分39秒 | のんびり散策

 手ぐすね引いて、待ちに待っていた休日がやってきました。
 先週の三連休は会社に出ずっぱりだったので、二週間ぶりの休日です。ちょっと疲れが溜まっているのと、冬が戻ってきたような寒さに脚はすくみがちではありましたが、三月最後の休日です。
 前々から考えていたように、無患子(ムクロジ)に会いに行くことにしました。

 ムクロジの樹があると知ったのは、我が庵から徒歩数十分のところにある流山市の観音寺というお寺です。ところが、私はムクロジの樹を見たことがありません。
 で、観音寺のムクロジについてネットで捜してみました。あることはあるらしいとわかったけれども、いま一つハッキリしません。
 たとえば、天然記念物か何かに指定されていて、これがムクロジですよ、とわかるような表示でもあればいいが、そうでなければせっかく行っても見極めることができないかもしれない。

 どうしようか。
 少し迷った挙げ句、所在のはっきりしている埼玉県上尾のお寺へ先に行き、ムクロジの樹の実態をしっかと目に焼きつけたあと、帰りに観音寺と、流山市内にもう一か所ムクロジの樹があると知った赤城神社を訪ねることに決めました。

 上尾といっても、目指すのは高崎線で上尾のもう一駅先の北上尾です。
 時刻表ナビで調べると、新松戸からは一時間十五分ぐらいかかります。さらにムクロジのある龍山院というお寺までは北上尾駅から徒歩二十分少々。
 南浦和で武蔵野線から京浜東北線に乗り換え、浦和か大宮で高崎線に乗り換え、と二度の乗り換えを強いられるので、電車の接続が悪い場合を考えると、行って帰ってくるまで四時間はみておくべきか。

 行き当たりばったりが得意な私としては珍しく時刻表や地図と睨めっこしながら、用意周到に準備を整えました。
 というのは、土曜からから月曜まで馬橋・萬満寺の春季大祭があって、仁王尊の股くぐりという催しがあるので、帰りにはそれを見に行きたいと思ったのです。

 九時、遅くとも十時には家を出ようと考えていました。
 野道のようなところを歩かされるかもしれないと予想したので、弁当にお握りを持って行こうと思い、土曜日の勤め帰りにダイエーに寄って、お握りを握ってそのまま携帯もできる、お握りパックというのを二つ、具にする鮭と鱈子を買って、夜のうちに焼いておきました。

 ところが、二週間ぶっつづけで出勤したからか、お風呂に入って床に就いたら、思わず寝過ごして、目覚めたのは九時近くでした。
 あわてて御飯を炊いたのですが、どういうわけか、二十分ぐらいで炊飯器のランプが炊き上がりを示す緑色に変わりました。ンなわけはねェだろうと蓋を開けてみれば、危惧したとおり半粥状態でした。
 ンもォ、どうなるのかわからねェが……エエイッ! もう一回、と早炊きのボタンを押す。

 こんな幸先の悪いことがあって、家を出たのは十一時半でした。50メートルほど歩いたところで万歩計を忘れたのに気づいて、あと戻りもする始末。
 新松戸で電車に乗ったのは十一時五十二分と、もはや昼です。ご飯のほうはグチャグチャに炊き上がっていたので、ほったらかしにして出てきました。もちろん握り飯は「なし」です。



 電車の接続は予想外にスムーズでした。新松戸から武蔵野線、京浜東北線、高崎線と乗り継いで、ちょうど一時間。北上尾で降りました。



 それらしき名残は何もないけれど、旧中山道です。
 中山道六十三次の宿があったのは上尾と桶川。このあたりはその中間地点です。



 上氷川神社。
 上(かみ)というのは、このあたりの土地の名です。このあたりの鎮守というだけで、神社の由来はまったくわかりません。

 

 上氷川神社の狛犬。
 漫画チックなつくりです。取り分け左(画像上)の吽形のほうは可愛い。



 上氷川神社のすぐ裏手に、目指す龍山院がありました。真言宗智山派のお寺。開山は1400年代か、それ以前。



 やっと会えたムクロジです。
 これがムクロジの樹であったのですか、としげしげと見上げました。幹周り4・1メートル、樹高15メートル。

 正徳元年(1711年)、当寺第十三世の覚本という和尚さまが檀徒代表らとともに、諸国巡礼するのを記念して、榧(カヤ)
、桜と一緒に植えたといわれています。すなわち来年でちょうど三百年。

 実はいつごろ実って、いつごろ落ちるのでしょうか。
 見上げたものの、一つもないようでした。「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という心境です。
 眼を凝らして幹の周りをゆっくり廻ること二度。落ちていた実を二つ見つけました。周りに誰もいないのを確かめ、ポケットティッシュにくるんで鞄の中に入れましたが、実も写真でしか見たことがないので、本当はムクロジの実かどうかわかりません。



 道路に出て眺め直したムクロジの全景です。
 3メートルほどの高さから枝分かれが始まって、それぞれの枝が勝手な方向に伸びて行く、という印象です。どこかで見たことがあるような樹形ではありますが……葉の出揃った季節に、いま一度見なければなりません。

 眼底に焼きつけるために、もう少しゆっくり見ていたかったのですが、とにかく滅茶苦茶に寒いのでした。
 寒そうだからと思って、真冬用のコートを着てきましたが、まさかマフラーまでは、手袋までは、と思ったので……コート以外は無防備。そろそろ桜の咲く季節だというのに、手がかじかむほどに寒い。
 ときおり木枯らしのような風も吹いて、ひたすら寒いのと先を急ぐ理由もあったので、龍山院を見たのを最後にして引き揚げることにしました。

 行きは浦和で乗り換えのとき、プラットホームに上がったら、タイミングよく籠原行の電車がきました。帰りは北上尾駅の階段を降り始めたときに上り電車が滑り込んできました。今日の行程の中では電車の本数が一番少ない高崎線なのにラッキーでありました。
 ただ、帰りに乗った電車は埼京線経由で東海道線の国府津まで行く快速でした。北上尾の先、上尾、宮原、大宮と停車したあと、埼京線を走って行くので、さいたま新都心も浦和も通らないのです。

 乗客の会話でそのことを知って、浦和で乗り換えるつもりだった私はあわてて大宮で降りましたが、車掌は寒いからといって、むせかえるほどの暖房を入れるというよけいなことをしながら、停車駅という肝心なことは一言も案内しない。
〈明日-勤めからの帰りが早ければ-のブログにつづく〉


Just Walking in the Rain

2010年03月08日 08時05分58秒 | のんびり散策

 ちょっと風邪気味。
 で、もって、一昨日は折角の土曜休みだったのに、雨降り。おまけに鬱陶しいモノが家にいて、気分の滅入ることばかり、苛々することばかり……。
 せめて日曜日が晴れだったらいいと願うのに、天気予報ではまた雨模様です。

 霽れない気分で日曜の朝を迎えると、当たらなくてもいい予報が当たって雨です。いっそ土砂降りというのなら潔く諦めもつくけれど、連日チマチマとセコイ雨です。おまけに風も強い。

 あるサイトで、ときおり伝言のやりとりをする大阪のおばちゃん(本人曰く)から伝言があった上、公開している日記も更新したようなので、読んでみました。

 その日記に曰く。
 勤め帰りにスーパーに寄ったところ、改装セールをやっていたので、衣料品を買った。何枚買ったのか知らないが、全部で1350円で、添付された写真には一枚に290円の値札がついているところを見ると、四枚か五枚買ったらしい。
 ところが、全部若者向けの衣料品で、自分が着られるのはせいぜい一枚。それなのに、「大阪のおばちゃんは、安いの大好きですねん。来週会社に行って、自慢するねん」と書いてあったので、思わず笑ってしまいました。いかにも大阪人らしい(私のイメージの中では)明るさがあって、少し気分がなごみました。

 新しい傘も新しいレインシューズもないけれど、おばちゃんの元気に背中を押されるような気になって、鬱々と家に籠もっていても詮方なし、と雨の中を散策に出ることにしました。
 目的地は先週の日曜日にちょっと興味の兆した松戸七福神巡りの一つ・福禄寿が祀られている八柱の圓能寺です。新松戸から一駅だけ電車に乗って新八柱へ。



 その前に安蒜(あんびる)家長屋門に寄り道。天保十一年(1840年)に建てられたものだそうです。
「21世紀の森と広場」脇にあります。左手に「私有地につき無断立入禁止」の看板がありました。断わりを入れようにも、門は開いていても、人がいる気配はありません。ズイと足を踏み入れてもよかったけれど、ちょいと躊躇する気が起きて、撮影は門だけ。

 松戸を歩いていると、ときどき「アンビル」という名のついた商業看板を見かけます。
 大谷口城主だった高城氏について調べていたころ、ところどころで「アンビル」という名を見た記憶がありますが、長屋門を見ていたときは確たる記憶は何もありません。
 家に帰って調べてみると、祖は上総国畔蒜郡(現在の千葉県袖ヶ浦あたり)から発生した畔蒜(あんびる)氏で、元寇のとき、防備のために対馬に渡った主流があり、そのまま対馬に居着いてしまったので、大部分もあとを追ったのだとか。そのため、対馬ではこの珍しい苗字が非常に多いということです。

 房総に残った人たちは何かの事情があって、「畔」→「安」へと字を変えたのものか。紆余曲折があって、高城氏の家臣となります。その中に安蒜丹後淨意という人がいて、この人は大谷口城の築城に当たった人です。



 閉園時刻の迫っていた「21世紀の森と広場」。
 雨でもあり、人影は遠くジョギングする人一人だけ。

 目指す圓能寺は「21世紀の森と広場」横の高台にあります。雨なので、傘を片手に鞄から取り出して眺めている余裕はないだろうと、地図は持たずに出てきました。



 おかげでとんでもない回り道をすることになりましたが、物事はいいほうに考えようという気持ちになっていたので、偶然通りかかったこの香取神社を拝めたもそのおかげ、と考えることに。



 香取神社前にある墓地に祀られた六地蔵。



 門は開いていましたが、やっているのかいないのか、よくわからなかったので、入るのをためらってしまった千駄堀民芸資料館。カラオケの伴奏のようなギターの音が聞こえていたのも、ためらいの原因。

 あとで調べると、江戸時代から昭和三十年代にかけての農具や生活用具約三千点を集めた私設の資料館で、日曜と祝日だけ公開されるとのことでした。



 室町時代の文安四年(1447年)開山と伝えられる圓能寺です。



 松戸七福神の一つ・福禄寿。
 徳蔵院の賑々しい参道に較べると、こちらはかなり控え目です。これで七福神巡りは医王寺、徳蔵院につづいて三つ目。



 武蔵野線沿いの道端で見かけた梅花。雨に打たれて落花盛んでした。

 闇雲に歩いたおかげで、身体は汗ばんでいますが、手先だけは非常に冷たい。八柱駅に戻ってまたスーパー銭湯へ行くことにしました。

 銭湯からの帰りはさらに尋常ではない寒さになりました。身体のほうは入浴直後でもあり、分厚い冬のコートを着ているので耐えられましたが、手指の冷たさが尋常ではない。
 何日か前、手袋をどこかに忘れているので、手袋なしでした。

 寒いと痛む右足の小指も、絶対温度ではなく、相対温度で痛むということがわかりました。氷点下に近い気温の日でも、前日がもっと寒いと痛まないのに、それよりは遙かに気温の高い日でも、前日がもっと暖かい日であったりすると痛んだりするのです。
 雨で靴が濡れるのも、足を一層冷やす原因になりました。
 この夜も、歩くのにつれて、冷えるのつれて、徐々に痛みが……。

http://www.youtube.com/watch?v=kCjTWYoRTzM

 これは失恋の歌なのですが、内容に反してテンポもメロディも軽快です。私が九歳のときのジョニー・レイ(当時二十九歳)という人のヒット曲。
 いまのように、アメリカで発表されれば即日聴けるという時代ではなかったので、実際に耳にしたのは何歳のときであったか。それも、日本人歌手が歌う日本語の詩でした。歌っていたのは確か雪村いずみ……。

 ジョニー・レイはちょうど二十年前に亡くなっています。死因は極度のアルコール依存症。


久しぶりの浅草

2010年03月02日 22時04分47秒 | のんびり散策

 ブログの更新をもたもたしている間に、友と会ったのは先月のことになってしまいました。
 二十一日日曜日は友が帰る日。
 今回会うことになって、友が地図が好きで、よって伊能忠敬を崇拝しているということを初めて知りました。伊能忠敬の話が出たのは、前日、銚子行を決めたときです。
 成田経由で銚子に行くと、佐原という町を通ります。伊能先生の生地です。以前は佐原市。合併して香取市となりました。
 佐原駅で途中下車して、伊能先生の生家なども見せたいと思ったのですが、友は第一に利根川、第二に九十九里浜を見たい、ということだったので、佐原に寄っている時間はなくなってしまいました。
 穴埋めに、せめて伊能先生の墓参りだけでもと思って、友が帰るのを東京駅まで見送り方々、かつて私が棲んでいた浅草を訪ねることにしました。



 伊能先生の墓所は台東区東上野の源空寺という浄土宗のお寺にあります。
 浅草の住民だったころ、台東区役所や上野動物園、アメ横など、上野へ行く用があるときは、大概歩いて行ったので、このお寺の脇の道を通り抜けたものです。

 いつの日だったか、ここに伊能忠敬のお墓があることを知って、折あらば覗いてみよう、と思うようになったのですが、墓所はいつも開かれている境内とは別の場所にあって、私が通るときは恐らく普段の心がけが悪いのでしょう。いつも鉄の扉が閉ざされていました。



 もしかしたら今日も……と危ぶみながら行ってみると、運よく法事があったようで、門は開け放たれていました。私の心がけの悪さを、友の功徳のほうが上回ったものか。



 伊能先生のお墓です。



 伊能先生の先生に当たる高橋至時(よしとき)のお墓です。
 至時は幕府天文方。伊能先生に西洋暦を教え、日本全国の地理測量を支援した人です。



 手前には幡随院長兵衛夫妻の墓がありました。
 当時、このあたりに幡随院という浄土宗のお寺があり(いまは小金井市に移転)、その裏に棲んでいたことから幡随院を名乗ったようです。



 合羽橋本通りにある曹源寺。というようりカッパ寺として有名。



 寺内にあった正体不明の河童のギーちゃん。



 海禅寺は通りから少し奥まったところにあります。
 同名のお寺が茨城県守谷市にあります。平將門と影武者たちの供養塔があるお寺で、私は去年八月二十五日のブログ(平將門補遺)で触れています。
 寺の名が同じなのは偶然の一致かと思いきや、開山(1624年)の覚印周嘉というお坊さんの出身地が現在の茨城県守谷だったらしい。きっと子どものころから將門のファンだったのでしょう。



 海禅寺境内にある梅田雲浜(1815年-59年)の墓(右)。
 左は藤井尚弼(1825年-59年)という人の墓。寡聞にして私の知らない人です。
 あとで調べると、幕末の尊攘運動家。西園寺家の諸大夫の家に生まれましたが、安政の大獄で京都町奉行に捕らえられ、安政六年、江戸の小倉藩邸で病死。海禅寺に葬られたのは小倉藩主・小笠原家が海禅寺の有力な檀家だったからでしょう。

 海禅寺から合羽橋道具街はすぐです。
 道具街を南へ行き、北へとって返し、言問(こととい)通りの一つ手前の信号を右に折れると、金竜公園の木立の向こうに、かつて私が棲んでいたマンションが見え隠れしてきます。
 ちょうど十年前、目白から移り棲んだ当日、物干し竿をかけようとして、ベランダに取り付けられた物干し用のフックが壊れているのに気がつきました。
 管理人にいうと、どこからか二脚の物干し台を持ってきてくれました。腕をガッと拡げたような大きな台で、道路から見上げると、我が家のベランダだけに突き出した物干し台が見えたものです。
 いまも変わらず突き出しているものが見えました。

 ひさご通りの喫茶店で休憩したあと、江戸下町工芸館を覗いて、遅めの昼食。



 浅草居住時代、よく五目焼きそばを食べに通った華春楼。
 ほぼ十年ぶりの訪問です。浅草に転居する前、八年間棲んで慣れ親しんだ目白にある揚子江(中華料理店)の味を思い起こさせてくれる店でした。
 松戸に支店を出しているのを知って、訪ねてみようと思っていたのですが、支店のほうは私が現在地に移り住んでしばらくあとに店を閉ざしてしまいました。



 久しぶりに出会った五目焼きそばです。
 長いこと食べていなかったせいか、少し味が変わったようにも思えましたが、昔の想い出が蘇っていたのか、なんとなくほろ苦い味がしました。
 千葉県内では頼まないと持ってこない練り辛子がちゃんとテーブルに置いてありました。
 ウェイターも同じ人でした(ような気がします)。



 食後は花やしき通りを抜けて、浅草寺へ。
 本堂は改修工事中でした。去年三月に始まり、今年十一月末まで。



 浅草寺は相変わらず人が多い。ことに仲見世の混雑には愕きました。
 浅草に棲んでいたころ、毎日気晴らしに散歩に出たものですが、行くところといえば、浅草寺境内しかありませんでした。
 しかし、休日は人出が多いことを予想して、行ったことがありません。行くとすれば、浅草寺の本堂が閉じられる夕方六時以降。仲見世も店じまいするので、人っ子一人いなくなります。
 浅草寺が一番賑わう正月も、四万六千日のほうずき市の日も、浅草寺の扉が閉まると、ものの見事に人がいなくなるのです。



 小旅行の締めくくりは、吾妻橋まで歩いて水上バスに乗ることにしました。約四十五分かけて日の出桟橋へ。
 右上は新しいテレビ塔になる東京スカイツリー。完成後は634メートルという、とてつもない高さになります。五日前(二月十六日)に300メートルを超えていました。

 日の出桟橋に着くころにはもう夕暮れでした。
 浜松町から上野に戻り、コインロッカーに預けておいた友の荷物をとって、東京駅へ。徐々に別れの時間が近づいてきます。

 子どものころのお正月と同じように、愉しい休日はこうしてあっという間に過ぎ去りました。「のぞみ」に乗って帰って行く友を見送ったあとは、なんともいえぬ虚脱感だけが残りました。


犬吠埼から九十九里浜へ

2010年02月25日 21時56分24秒 | のんびり散策

 二十日土曜日。友の来訪三日目。
 友は奈良市在住、勤務地は京都市。ともに海のない土地です。
請われて銚子まで出かけることにしました。利根川と太平洋が見たいというのです。
 私が銚子へ行くのは三度目ですが、同じ県内だというのに、改めて遠い! ― とくに新松戸からだと、取り分け! ― と実感させられます。

 新松戸~銚子は我孫子を経て成田へ出るか、西船橋経由で千葉へ出るか。二つの経路がありますが、成田から先、千葉から先は、ともに電車が一時間に一本程度しかありません。
 しかも単線なので、各駅ごとに上り電車とすれ違うという感じで、じつに時間がかかります。
 新松戸九時二十一分発の我孫子行電車に乗って、我孫子(乗り換えの待ち時間十四分)と成田(同十二分)で乗り換え。銚子に着いたのは十一時五十六分。最早お昼間近でした。

 


 真っ先に利根川を見に行きました。銚子駅から数分です。
 全長約322キロは信濃川に次いで日本で二番目、流域面積16,840平方キロは日本一。この眺めこそ私のイメージする大河・利根川です。



 利根川を見に行く途中で見かけた、銚子駅前通りの荒物屋さんの店主(?)。
 道路に大きくはみ出して昼寝をしていても、人通りが少ないので、邪魔にはなりません。



 これも途中にあった桔梗屋という食堂。
 暖簾には桔梗紋が染め抜いてありました。丼にも桔梗紋があれば念の入ったものでしたが、右のショーウィンドウのサンプルを見た限り、丼などは紋なしでした。



 ヒゲタ醤油銚子事務所。
 現在、本社は東京ですが、ここ銚子が発祥の地。創業は約四百年前の元和二年(1616年)。銚子醤油を代表するもう一つのメーカー・ヤマサ醤油は正保二年(1645年)の創業。



 三越がありました。
 商品の陳列はほとんどない小型売店です。それでも三越があるとは、さすが歴史のある街だと思ったら、同様の小型売店は千葉県内に十三店もあるとのこと。そのうち三越銚子を含めた四店舗はあと一か月、三月二十二日をもって閉店だそうです。

 銚子市の人口は七万五千人。昭和三十五年ごろがピークで、九万近くの人が住んでいましたが、年々減りつづけています。

 前回銚子にきたのは二年前のゴールデンウィーク中でした。銚子漁港から銚子駅まで、銚子銀座というメインストリートを歩きましたが、銚子の人々はほとんどが旅行に出払ったのか、と思わせるほどの人通りのなさでした。
 今回はほんの少し人通りが増えたような気がしましたが、気のせいかもしれません。



 銚子駅に戻って銚子電鉄に乗りました。
 一両だけのレトロな電車で犬吠埼へ。この電車は地下鉄銀座線を走っていたそうです。そういわれれば見覚えがあるような……。銀座線を走っていたときは、ときおり車内灯が消えて、電車の中は真っ暗になったっけ。



 犬吠駅。
 オランダふうのつくり、だそうですが、なにゆえにオランダなのだろう。ごく純朴な田舎の駅にしたほうが風情があると思うのですが……。



 犬吠埼灯台は改装工事中でした。
 灯台というより仏塔の改装工事を見るようです。

 


 
灯台下で、しばし磯遊びに興じました。
 波が岩に砕け散るさまを眺めていると、いつまでも飽きません。

 当初は東金か茂原まで行って九十九里浜に出ようと考えていたのですが、銚子駅に戻って総武線に乗るころには、すでに夕暮れが近づいていました。
 陽が落ちないうちにと、銚子から三十分足らずの旭で降りて、九十九里浜に向かいました。



 九十九里浜で出会った野良殿。
 市川大野のオフグ一家、新松戸のコツブ一家にはまったく会えていないのですが、ミオは常に鞄の中に忍ばせてあります。
 この野良殿は、こんなに美味しいものは生まれて初めて食べたという様子で、私たちのあとをついて廻りました。



 このあたりは矢指ヶ浦と呼ぶようです。
 地図には著わされていないので、見晴るかす60キロの砂浜がつづいていると思いきや、ところどころに砂の流出を防ぐ突堤があったり、波消しブロックがあったりして、延々とつづく砂浜を見ることはできませんでした。



 浜辺から見ると、ちょうど夕陽の沈むあたりに、マンションでもなし、ホテルでもないような高い建物が一つだけポツンと見えました。
 近づいてみると、マンションにしてはド派手な館内の照明からして、どうやらホテルらしいと見えました。
 ティルームでもあれば休憩……と思って行ってみたら、
かんぽの宿・旭九十九里温泉でした。うれしいことに日帰り入浴があって、冷たい海風で冷え切った身体を温めることができました。

 私が行くスーパー銭湯とは違って、ここはれっきとした温泉です。
泉質はナトリウム・塩化物・強食塩泉。ただし、源泉の湯温は29度だそうですから、摂氏25度以上という日本の基準に照らすと辛うじて「温泉」。
 日帰り入浴料は1000円也。交通不便な場所にあるのにしては、ちょっとボルんではないかという気がしないでもない。
 十階には展望風呂があるようでしたが、利用できるのは宿泊客のみだそうです。十階という高さからなら、さぞ眺めはいいことでしょう。
 この日、レストランは貸し切りで使用不可。もちろん毎日がこのように盛況とはいかないでしょうが、「かんぽ」といえば袋叩きに遭い、多くの施設を二束三文で売却しなければならなかった、というのが嘘のような賑わいでした。

 帰りは二十時三分の電車に乗車。
 これを逃すと、次の千葉行は二十一時七分まで待たなければなりません。そして、そのあとの二十二時十八分が最終。


馬橋からスーパー銭湯へ

2010年01月20日 20時13分10秒 | のんびり散策

 久しぶりにオフグ一家に会えました。



 最後に会ったのは入院前でしたから二か月ぶりです。朝もたまにこの道を通ることがあるのに、朝会ったのは初めてです。ただし、母猫のオフグは相変わらず姿を見せず、いたのは仔猫たちだけ。
 朝は時間がないので、ミオをザッと開けて会話を交わすこともなく立ち去りました。



 市川大野の「こざと公園」では毎冬恒例の葦の枯れ草刈りが始まっています。
                          
 ノートパソコンのマザーボードがイカれたままです。購入四年で二度目の故障なので、もう修理に出す気はなく、買い換えしかないと考えているのですが、先立つモノになかなか余裕が生まれないので、買い換えの日まで処分せずにとってあるのです。
 このパソコンは枕許専用です。寝る前のひととき、目覚めた直後のひととき、寝そべったまま日記をつけたり、メールを見たりするために買ったものです。

 キー入力ができません。入力するときはスクリーンキーボードを使い、マウスを使って一字ずつクリックしなければならないので、疲れてしまいます。
 年明けには新しいノートパソコンにお目にかかれるかもしれぬ、と思っていたのですが、二週間の入院費用で、その目論見も泡と消えてしまいました。

 そこで、先立つモノが貯まるまでの一時凌ぎに、USB接続のキーボードを買うことにしたのですが、家電量販店が松戸駅にあると具合がいいと思うのに、私の知っている限り、船橋か柏にしかありません。
 なにゆえに松戸駅にあれば具合がいいのかというと、買い物をしたあと、またスーパー銭湯に行こうかと思っていたからです。

 インターネットで調べると、新松戸の隣・馬橋駅からそれほど遠くないところに、100満ボルトという量販店を見つけました。これまで耳にしたことのない店名でしたが、早速行ってみるべし、とトートバッグにタオルやシャンプー、リンスを詰め込みました。

 


 馬橋駅東口を出て、旧水戸街道をしばらく歩くと、意匠を凝らした橋が見えてきました。曰わく因縁がありそうだ、と思ったら、思ったとおり地名の元になった「馬橋」でした。
 千駄堀池を水源とし、新坂川に注ぐ長津川という、名前に反して小さな川に架かる橋です。



 馬橋駅から徒歩十分で着きました。

 首尾よくここでキーボードを手に入れたので、スーパー銭湯へ向かいます。
 庵を出るときは、北松戸の駅まで歩き、北松戸→松戸→上本郷と電車に乗るつもりでしたが、携帯してきた地図を眺めると、北松戸から上本郷まではそれほど距離はないようです。これまで歩いたことのない場所でもあるので、散策がてら歩いてみることにしました。

 途中、龍善寺という浄土真宗のお寺と風早神社の前を通りました。参詣をかねて写真だけ撮りましたが、今日は寺社巡りをするつもりはなく、下調べもしていないので、ブログに載せるのはパス。

 庵に帰ったあと、近くに本福寺という時宗のお寺があったのを知りました。本覚寺という日蓮宗のお寺もあって、両方とも建武期の築城と推定される上本郷城の城跡に建立されたらしい。
 城趾というからには是非訪ねてみなければなりません。龍善寺と風早神社はそのときに触れるつもりです。



 新京成電鉄の上本郷駅近くまできたとき、とあるマンション前に石蕗(ツワブキ)が植えられていたのでカメラを向けました。
 マンションの名を「エスポワール(espoir=フランス語で希望の意)」とせず、できるだけ原音に近い「エスプヮール」とするあたり、フランス語にこだわりを持つオーナーのようです。

 上本郷駅前の商店街を通り抜けると、道はT字路になりました。しばし立ち止まって地図を取り出すと、やんぬる哉、地図は通り抜けてきた商店街で切れてしまっています。インターネットの画面では一番下にスーパー銭湯が表示されているのを確かめてプリントしたのですが、プリントしたあと確認するのを怠っていました。
 あとは山勘に頼るしかありません。テキトーに右に折れ、テキトーに左に折れると、「天神山」という古墳に行き当たりました。住宅地の中にあり、発見されたときはかなり破壊が進んだあとだったようです。



 標識には「円墳」とあるだけで、いつごろの古墳なのか説明がありません。
 あとで松戸市のホームページを見ましたが、先の馬橋とともに、「文化財標識柱設置場所一覧」に名前が一行記載されているだけで、いわく因縁はまったく知れませんでした。
 跡地には天満宮が祀られていますが、これも来歴はまったく不明。



 天満宮にあった楠(クスノキ)の巨木。樹高20メートルはあろうかと思えます。祠を撮した上の写真で、左手に根元の写っているのがこの樹です。

 いまは住宅が建て込んでいるので、坂道があると見えるだけですが、かつては「天神山」という山だったのでしょう。わりと急な坂を下り切ると、見覚えのある窪地に出て、その向こうにスーパー銭湯の建物を見ることができました。
 まったくの偶然に過ぎませんが、テキトーに歩いたわりには、ほとんど道を違えることなく辿り着くことができました。
 ブログではスキップした風早神社に、¥100也のお賽銭を上げたお陰かもしれません。



 今日も1番の靴箱が空いていました。お湯のほうは前三回に較べると、かなり空いていました。
 ただ、湯温は私にとっては相変わらずぬるめなので、ちょっと飽きてきたかな、という気がしないでもありません。回数券はまだ六枚も残っているので、無駄にはできませんが……。



 胃潰瘍も完治したので、湯上がりには久しぶりのビール。つまみは冷や奴。
 酔っ払うかと思ったのですが、胃が健全に戻ったせいか、あまり酔いませんでした
。しかし、この日のアルコールはこの一杯だけ。

↓今回歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map63240.html


利根川散策(2)

2010年01月11日 20時35分29秒 | のんびり散策



 長禅寺の山門兼鐘楼。念仏院からこの石段の取っつきまで徒歩十分弱。
 このお寺を訪れるのは四度目になりますが、正門に当たるこの急な石段を上るのは二度目。
 四度目にして、二層になった山門が鐘楼にもなっていることに初めて気がつきました。はは~ん夏の間は両側から樹の枝が伸びていたからな、と観察力の乏しさを自分に言い訳しながら、へっぴり腰で上りました。



 石段を上り切ると、正面に現われる三世堂です。
 内陣に本尊の十一面観音の他、西国三三所、坂東三三所、秩父三四所、計百の観音様が祀られていることから百観音堂とも呼ばれます。

 以前のブログにも書きましたが、平將門はこのお寺の落慶式の日に愛妾・桔梗の前を見初めたといわれています。
 ただし、創建当時は現在地とは別の場所にあって、この御堂が落成したのも、創建から八百年もあとのことですから、実際にはなかった話……なのですが、私は二階(外見は二層でも、内部は三層構造になっているので、実際は三階)の欄干から見下ろした將門が、篝火の仄かな灯りに照らし出された桔梗の前の姿を見たのだ、と思いたい。

 内陣が開帳されるのは年一度だけで、毎年四月十八日。今年は日曜日なので、見に行けるかもしれません。松戸に住みつづけていれば、の話ですが……。



 何を祈るか、熟年夫婦。
 私にもこういうほのぼのとした時代があったような……。されど、もう忘れています。



 山門と百観音堂の間、見過ごしてしまいそうな場所。
 石組みの上に、三体並べられた弘法大師像(?)がありました。



 クローズアップしてみると、中央下にも超ミクロな大師がおわしました。どれほどの小ささなのか、左にスイカを入れたパスケースを置いてみました。



 帰りは我孫子には停まらない特別快速がきたので、松戸まで乗って新京成に乗り換え。またスーパー銭湯へ行ってきました。
 松戸新田駅前の通りから住宅街に折れる角に「仲の湯」という銭湯がありました。現在、千葉県の入浴料金は一律420円(東京、神奈川に次いで全国で三番目に高いそうです)。
 私が目指しているスーパー銭湯は回数券を買っているので一回あたり490円ですが、なければ750円。
 この銭湯はまだ入ってみたことはありませんが、きっと湯温は高めだろうと思います。回数券を使い果たす日がくれば、ここで済ませたほうがいいような……と思いながら前を通過。



 スーパー銭湯前で信号待ちをしていたビーグル犬(信号柱の右下)がいました。

 スーパー銭湯へ行くのは大晦日、一月三日につづいて三回目です。前二回に較べると、少し空いていました。
 その代わり、いけない者どもがいました。騒ぐガキ、シャワーの湯を飛ばして周りを憚ることのないクソオヤジ……。
 正月を挟んだ時期に、こういう連中がいなかったのは、私が思うところ、年末年始は田舎に帰っていた田舎モンが戻ってきたのか、と。

 身体を洗うのもそこそこに露天風呂へ。
 一週間前は43度という湯温でしたが、今日は42・5度。同じ露天の桧風呂、壷湯とハシゴしました。桧風呂、壷湯とも少しぬるめ。

 壷湯は五右衛門風呂程度の大きさの陶製の壷で、一人しか入れません。
 身体を沈めるとザバーッとお湯が溢れ出る爽快感、が売りのようですが、まだ退院後一か月で、痩せ細った私の前に入っていたのが体格のよい人物であったため、ザバーッとはいきません。お湯が貯まるのを待っている間に肩のあたりに鳥肌が立ってしまう。爽快感は味わえぬままに、もう一度42・5度の湯に……。

 ぬるい湯に長時間浸かるのは苦手です。しかし、ちょっとでも趣の異なった湯があると、出ては入り、入っては出て、結果的に長時間浸かることになりました。
 帰りは冷たい風に晒されたので、庵に帰り着くころにはすっかり冷えてしまったように感じられましたが、温浴の効果はいささかなりともあったのか、帰ってしばらくすると、手指と足先がじんわりと暖かさを取り戻してくるのを体感しました。

↓十日に歩いたところ。
http://chizuz.com/map/map62753.html


利根川散策(1)

2010年01月10日 21時30分08秒 | のんびり散策

 私が棲む土地では、一月五日から昨九日までの五日間が、一年のうちでもっとも日の出が遅いときで、六時五十一分。
 今日からわずか一分だけですが、日の出が早く転ずるようになりました。これも春の兆しです。

 早暁に小雨の降った日が一日あっただけで、年明けからずっと好天つづきです。寒さもさほどでもないので、大きな川を見に行こうかと思い、取手行を試みました。

 隣県とはいえ、利根川を越えるだけなのに、取手に行くのにはいつものことながら電車の便が悪い。常磐線の各駅停車で終点の我孫子まで行って、乗り換えで約二十分待ち。



 小腹が空いたので、電車待ちの時間を利用して、プラットホームの立ち食いそば屋で空腹を満たして行くことにしました。
 山下清画伯が働いていたことで有名な店です。
「おそばおいしいよ」という惹句が掲げてあったので、つむじ曲がりの私はうどんを注文。
 茨城ふう(我孫子は千葉県ですが)のうどんはこういうものなのか。ふやけたスパゲッティという感じの細さでした。



 取手駅の東口を出ると、利根川までは徒歩七分ほどです。ただし、それは堤防までの距離で、水辺まで行こうとすると、さらに四~五分かかります。



 堤防の階段を上り切ったところに、河口(銚子市)から85キロという標識がありました。

 

 平將門の遺跡を訪ねるべく、取手には何度か足を運んできました。
 くるときはいつも電車で利根川を越えます。電車が取手駅に滑り込む直前、長い鉄橋があって、さすがに広い川だと思っていましたが、実際に水辺に立ってみると、ちょっと拍子抜けしたような感慨を覚えました。
 河川敷は異様に広いのですが、上越国境を源としてはるばる旅をしてきたのにしては水量が乏しいのです。
 河口に当たる銚子で、同じ川の圧倒的な広さを見た記憶があるので、もっと滔々と流れる水を予想していたのですが……。
 川の流れそのものは両国橋あたりの隅田川のほうが遙かに広いのです。

 真冬にしては暖かいと思っていても、水辺に立つと、さすがに冷たい風があります。雲一つない好天でしたが、見る見るうちに身体が冷えてきました。
 河原で遊ぶ人の姿もまばらでした。堤防で草橇をする子が二人、凧(カイト)を揚げる子も二人。ゴルフコースだけがそこそこに賑わっていて、何面も取られた野球場は空っぽ。



 川を離れたあと、取手市民会館前に見つけた八坂神社。
 親子三人連れの参拝があっただけで、あとは無人。
 取手市民会館では成人式の集いが終わったばかりで、遠目では見目麗しき若者たちがゾロゾロと歩いていましたが、この神社にきて神頼みをしたり、二十歳まで無事育ったことを感謝しようとはせぬものらしい。



 地図を見ると、すぐ近くに浄土宗念仏院というお寺が載っていたので、寄ってみることにしました。短いが、急な石段のある参道の入口です。



 念仏院本堂遠景。
 いかなるお寺であるのか、取手市埋蔵文化センターの史料には詳しい記載がありません。
 沢近嶺(1788-1838年)という幕末期の取手宿の豪商であり、国学者・歌人であった人の墓と歌碑があるというだけで、いまのところは創建の年すらわかりません。
 沢近嶺は徳川斉昭の師だったようですが、斉昭は慶喜の父親。その師という繋がりでは、会津贔屓の私にとっては興味を惹かない人物です。



 境内にあった椋(ムク)の樹。取手市保護樹木という標示があるだけで、推定樹齢も不明。

 身体が冷え切ってしまったので、あと一か所だけ寄って、取手をあとにすることにしました。
 一か所というのは長禅寺という平將門所縁のお寺のことです。いつの間にか、取手を訪問したときのトリは、この長禅寺と決まったみたいです。
 お寺があるのは、ちょっとした高さの丘に過ぎませんが、駅から至近の距離なのに静謐であること、佇まいが落ち著いていることに加えて、いつ行ってもあまり人のいないことが気持ちを涼やかにしてくれるので、帰る前にはついつい寄ってしまうのです。
〈つづく〉


幻の筑波山神社詣で

2010年01月02日 21時02分51秒 | のんびり散策

 元旦に行きそびれた筑波山神社に行くつもりで庵を出ました。
 十二時には家を出ようと考えていながら、スタートが遅れました。今日が大学ラグビー選手権の準決勝で、テレビ中継があることを失念しており、正午のニュースが終わったあと、「スポーツショー行進曲」が流れ出して気がついたのです。
 第1試合は慶應対東海大。どっちが勝っても関係ないが、コートを着て中腰のまま見入ってしまいました。
 第2試合はメイジ対帝京大です。このまま見つづければ、終わるのは午後三時。筑波山へ行こうか、というような時間ではありません。

 慶應対東海大戦の前半四十分が終わるころになって、意を決してテレビを消し、庵を出ることにしましたが、帰りにはスーパー銭湯に寄るつもりで、鞄にタオルや櫛を詰め込んだのに、肝心の入浴回数券を持って出るのを失念しておりました。50メートルほど歩いたところで思い出し、取って返したので、電車に乗ったのは一時半近くになってしまいました。

 新松戸の隣・南流山でつくばエクスプレスに乗り換え。
 時刻表に合わせて出ているわけではないので、きたのは途中駅止まりの電車。途中駅で次の電車を待って、終点のつくば到着は二時でした。



 つくば駅A4出口。地下駅です。
 シャトルバス乗り場に行くと、バス停には強風でロープウェイは運休という貼り紙がありました。
 
つくば駅からの道順でいうと、近いほうが伊弉諾尊を祀る男体山で、こちらに上るのはケーブルカー。遠いほうが伊弉冉尊の女体山で、こちらは運休というロープウェイ。
 両峰に登らなければ意味がないといわれますが、今日の目的は登山ではないから、頂上に行けなくてもいいわいと思いながらも、なんとなく幸先がよくないというイメージを抱きました。

 二十分後に出発するバスがきました。待っている客は私以外に一人もいません。
 バス停を間違えているのかもしれぬと運転手に確かめると、間違ってはいないが、道路はものすごい渋滞で、終点の筑波山神社入口まで二時間はかかるという話です。事前に調べたところでは、普段の所要時間は四十分程度。
 ずっと昔、どこか辺鄙な場所にある神社へ行くのに、バス(それもギューギュー寿司詰め状態の満員)の中で一時間以上、姿勢を変えることすらままならずに行ったことを思い出してしまいました。

 五秒後、私はバス停に背を向けて歩き出していました。まあ、きてみなければわからぬことながらも、こんなことなら第2試合のメイジ対帝京大戦を視ているべきであったと思いながら……。

 筑波山神社は諦めたものの、心残りがありました。南流山で手に入れた「初詣ラインTX」というパンフレットに、同神社で売っている「つくばね守」というお守りが紹介されているのですが、それが買えないことでした。



 このように小さな写真(右下)が載せられているだけなので、しかと断言はできませんが、お守りは「はねつき」の羽を模した携帯電話用のストラップになっていて、先端には無患子(ムクロジ)の実を使っているように見えるのです。このお守りを無患子という樹の存在を教えてくれた友人にプレゼントしたら、悦んでもらえると思ったのですが……。
 無患子の樹があるという筑波実験植物園は歩いて行ける距離ですが、こちらは四日まで休園とあらかじめわかっていました。

 目の前にぶら下がっていた人参が、神隠しに遭ったように消えてしまうと、急に腹が減ってきました。
 つくば駅にはクレオスクエアというショッピングセンターがあって、周辺の人の盛り場になっているのか、結構多い人出がありました。
 建物は三階まであるのですが、なかなかエスカレーターが見つからない。やっと見つけて、レストラン街に行ってみると、二時半だというのに、どの店も並んで待つ人がいます。
 並ばせて待たせるほど、ほっぺたが落ちそうなものを食わせてくれるのかネ、と思いつつ、ただたんに並ぶのが嫌なので、偶然見つけたロフトへ。
 池袋のロフトと比較してしまう私が莫迦なのですが、品揃えは話になりません。しかし、我が新松戸にはロフトすらないのです!



 ロフトでこんな陳列を見つけたので、見咎められないうちに、カメラを出し入れして、手早くパチリ。



 筑波山のほうもロフトの窓から撮影するだけにとどまりました。
 左手筑波山の前に立ちはだかるのは、つくばエキスポセンターにあるHⅡロケットの実物大模型(高さ50メートル)です。

 クレオスクエアの中をゆっくりとひと巡りしたあとでもレストラン街は依然行列。
 まともな食事は庵近くに帰ってから、と心を決め、サブウェイでチキンとポテトを食べて、小腹が空いていたのを満たしました。

 何をしに行ったのかわからない日でしたが、一つだけ眼福がありました。
 帰りの電車の柏たなか~流山おおたかの森間で、夕焼けの中に浮かび上がる富士山を眺められたことです。
 それもただ夕景の富士山ではない。山頂に懸かった雲の一部だけに夕陽が当たって、まるで富士山が噴火しているかのように見えたのです。

 カメラを持って席を立ったのですが、惜しむらくは、ここぞと思ってシャッターを押そうとすると、途中にある森や林、鉄塔などが邪魔をして撮影すること能わず、であったことでした。
 つくばではショッピングセンターの中を歩いただけですから疲れたわけではありませんが、南流山に戻ってきたときにはすっかり暗くなっていたので、スーパー銭湯へ足を延ばすのは取り止め。

 さてさて、気にかけていたメイジは対抗戦時のような零封こそ免れたものの、また帝京大に完敗。
 春は依然遠いようです。


立冬も過ぎました

2009年11月09日 23時48分03秒 | のんびり散策

 一昨日は立冬でした。
 第一土曜日だったので仕事は休み。たっぷりと眠れたので、快調とは程遠い状態ながら、めでたさも中ぐらいなり、という体調です。
 午前中、先日まで使っていたタオルケットやシーツを洗濯して、洗濯機を回すこと三度。
 洗濯機を回している間、衣替えと部屋の模様替えを試みましたが、右の荷物を左に移し、左の荷物を右に移し……と、賽の河原の石積み繰り返すだけの状態で、ほとんど片づきもしないまま、約束があったので、外出。
 出かけるついでに、立冬でも花を咲かせているであろう朝顔を写真に撮ろうと思っていましたのに、すっかり忘れて帰ってきてしまいました。

 前後しますが、昨日曜日は眼鏡をコートの内ポケットに入れたまま洗ってしまい、弦をグニャグニャにしてしまいました。
 衣替えを思い立ったのは、その薄手のコートを着るためでした。衣服の大半を入れ替えたのに、どこにしまい込んだのか見つかりません。
 昼ごろになって部屋の片隅、夏物の下になっているのを見つけました。
 春先に脱いだまま、洗うのを忘れたまま置いてあって、襟ぐりがかすかに汚れています。小外出に用いたら、洗濯をしようと思っていて、帰ってすぐに洗濯機に突っ込んだのでした。眼鏡を入れたまま……。
 注意力が散漫になってきています。

 昨日は歩いて三十分ほどかかるホームセンターへ行って、桔梗と紅花の種を買いました。
 小腹が空いたので、マクドナルドに寄ってハンバーガーとコーヒーを持ち帰りにしてもらい、近くの蘇羽鷹(そばたか)神社境内のベンチに腰かけて頬張りました。

 

 蘇羽鷹神社の狛犬。
 左の吽形の狛犬は手水舎の屋根が近過ぎて真正面には行けない上に、私が訪れた午後の時間は陽光が遮られて、上手く撮影できませんでした。
 カメラにはフラッシュを強制発光させるボタンがあるのですが、どこをどう押せばそこに到るのかよくわかりません。そのくせ用のないときに強制発光のメッセージが出たりします。



 ハンバーガーをパクつくのに境内を借りるつもりだったので、志ばかりのお賽銭を、と思ったら、社殿の扉が開いていて、中に人のいる気配があったので、近づくことなく前を素通り。
 立派な石碑が二枚あって、ざっと飛ばし読みしたところ、昭和五十一年に不審火で燃えたが、五十五年に再建された、とあります。

 蘇羽鷹というのは変わった社号ですが、元々は曽場鷹、あるいは側高、素羽鷹とも表記し、千葉県北部を中心に十八社があるそうです。いまの千葉県一帯に勢力をふるった千葉一族の守護神でもありました。



 私が坐ったベンチの前はこんな光景です。何に使うためにこんな空き地があるのかわかりません。
 ここからほぼ真西の方角、徒歩十分のところに千葉氏所縁の三日月(みこぜ)神社があります。
 鎌倉中期の千葉宗家当主だった千葉介頼胤(1239年-75年)が館を構えた地に建立されたという言い伝えが遺されていますが、戦国期に消滅することになる千葉氏も、この時代はまだまだ勢力があって、本拠としていた現在の千葉市を離れる理由は考えられません。
 それに、蘇羽鷹神社が千葉氏所縁の神社だとしたら、城や館の北方(鬼門)に蘇羽鷹神社を祀るのが通例です。真西の方角に建立するとは考えにくい。

 この神社の創建は天正四年(1576年)といいますから、織田・徳川連合軍と武田軍との間で長篠の戦いのあった翌年です。
 千葉家の勢力はすでに衰えています。最後の当主・千葉介邦胤(1557年-85年)の時代で、このころ、本拠にしていたのは佐倉です。

 現在では宅地化されて遺構はありませんが、付近に馬橋城という城があったのは確かなようです。その城と関連づける人もいますが、詳細は不明というのが大方の説です。

 頼胤から十四代あとの孝胤(のりたね・1459年-1521年)の代-文明十年(1478年)の境根原(いまの柏市酒井根)合戦で太田道灌に敗れ、そのころに馬橋城も廃城になったという説もありますが、史料の裏づけがありません。城郭があったと確認できる史料が出てくるのはもう少し後代のものです。



 我が庵の近くで「将門」という名前の店を見つけました。滅多に足を運ばない方角なので、今日の今日までこんな店があるとは知りませんでした。
 前を通りかかったのが午後三時ごろと早かったため、店内は暗く、人の気配はありませんでした。いつか訪問して、店の名の由来ぐらいは聞いておかなければなりません。



 ホームセンターからの帰り、懸案の朝顔をカメラに収めて家に戻り、自分でもめっきり丸くなったと感じられる背に夕陽を浴びながら桔梗と紅花の種を播きました。
 背を丸くしたのは寄る年波だけではありません。

 関東大学ラグビー対抗戦八日の結果。メイジは24対43と筑波大に完敗。明慶戦につづいて2連敗です。
 再建途上ながらも、着々と……と思っておりましたが、筑波にも負けるとは……。道は限りなく遠いようです。

↓今回の参考マップです。
http://chizuz.com/map/map59928.html


休日出勤

2009年08月10日 12時53分18秒 | のんびり散策

 昨日曜日、EMS(国際郵便)で外国から貨物が入ることになっており、それにちょっとした細工を施して出荷しなければならなかったので、また休日出勤です。
 郵便物が届けられる時間は午後二時~三時と幅がありましたが、一時前にくる可能性もあったので、配達人を待たせぬように出勤しました。



 六月の終わり、咲いていることに気づいた路端の桔梗はとうに花期は終わっていると思ったのに、まだ花を咲かせていました。



 貨物が届けられたのは二時。一時間半ほどかけて細工を施し、近くのクロネコの集配所まで持って行って、休日出勤は終わりです。
 クロネコへ行くと、市川大野の駅までは、いつもとは違う道を経由するほうが近道です。その道は、かつて大野城があった丘を切り開いた道で、初めて歩きます。
 この中学校の校庭に大野城の本郭跡があります。夏休み中でもあり、入ることはできないだろうと思って、入口だけ。



 中学校先にあった浄光寺の二王門です。
 両脇に高さ24・3センチという小さな二王像があるそうですが、小さいのと暗いのとで、肉眼ではよくわかりません。地面からは見上げるような高さにあるので、写真を撮るとしたら、足場が必要です。

 この二王像は乳首がないことで知られています。
 伝説によると、鎌倉時代の仏師・運慶がこの地にきて、死んだ母の菩提を弔うべく刻んでいたのですが、完成間近になって母の姿が現われたので、つい誤って乳をそぎ落としてしまったのだそうです。
 失敗したと思って、壊そうとしましたが、母がこの地の安産の護りとせよ、と告げたので、そのまま完成させた、という伝承が遺っています。



 浄光寺本堂。
 運慶が関東に下り、先の無乳二王金剛力神を彫刻して、当寺多聞院に安置したのは承久年間(1219年-21年)という言い伝えがあるので、開創はそれ以前ということになりますが、いまのところはっきりした年代はわかりません。宗派不明(いまのところ)→日蓮宗→真言宗→日蓮宗と改められて現在に到る。



 境内にある毘沙門天像。
 浄光寺では「たまんぼう」と呼んでいるそうです。由来は不明ですが、毘沙門天は四方を鎮護する四天王の一つ多聞天のことです。「多聞天→多聞坊→たまんぼう」となったのではないかと推測されています。
 旧大野城北方に祀られ、城郭の守護神でしたが、秀吉の小田原の役後、大野城の廃城とともになくなって、「たまんぼう」という名前だけが遺りました。
 後年再建されて、いまは市川七福神の一つです。

↓参考マップです。
http://chizuz.com/map/map55578.html