久しぶりに散策に出ました。
といっても、十日以上も前、十六日の話です。
ブログを更新しようという気がなかなか起きず、更新は今日まで延ばし延ばしになっていました。
前の散策(五日)からその日まで、二度ハローワークへ出かけたのを除いて、また家に引きこもっていました。
何日も引きこもったままで、ときおりパソコンに向かう以外は何もしないのに、いつの間にか日が暮れて、愉しい夢とは無縁の夜がやってきます。
もうダメかもしれぬと思う日と、なんとなく希望が湧いてくるような日の繰り返しで、大波小波に揺られながら、一週間や十日はあっという間に過ぎるのです。
散策に出ようという気になったのは、翌月曜日に面接を控えていたので、足慣らしをしておこうと考えたからです。どこを目指すという目標もありませんでしたが、足は自然と北に向かいました。
ずっと歩いていなかったので、脚にガタがきているのではないかという予断に反して、歩き始めると、結構快調です。
少し風の強い日でした。
ふと、風薫る五月という言葉が浮かびましたが、私の気持ちは遙か遠いところをぼんやりと眺めているだけで、そういう風流とは縁遠いところにあります。
いつものように大谷口歴史公園前を通り、廣徳寺前を通過。道は徐々に上りになり、やがて下って、また上りになります。二つ目の坂を上り切ったところが松戸七福神の一つ弁財天の祀られている華厳寺です。
二か月近く前、杏(アンズ)の花を見に行ったときはこのあたりで右に折れて、帰りの行程に入りましたが、この日はとくに疲れも覚えていなかったので、さらに足を延ばすと、小公園の中に幸田(こうで)貝塚跡という説明板がありました。
六千年前、縄文時代前期の遺跡だそうです。といっても、説明板が一枚建てられているだけで、遺跡らしきものは何もありません。
家に帰って調べてみると、結構大規模な集落(百六十軒の竪穴式住居を発掘)で、縄文時代の土器研究上きわめて重要な資料になるという関山式土器群も多数出土したようです。
出土品は松戸市立博物館に所蔵されているのですが、なぜか常設展示はしていないので、簡単には見られないものらしい。松戸市自慢の所蔵品のはずなのに、市民が気やすく見られないとは……。
公園の少し先は斜面になっていました。
斜面を降りて右手に歩くと、前に訪れた前ヶ崎城址に出ます。
途中に幸田湧水を見つけました。
一応池になっていますが、前に見た宮ノ下湧水と比較すると、淀んでいて水量も乏しく、清涼感はイマイチです。
前ヶ崎城址へは行かないことにして、富士川に架かる橋の上で少し涼んでUターンしました。
ラベンダーかと思って近づいたら違いました。畑一面に咲いていましたが、何の花か。
六千歩……。
一時間強歩いたところで、久しぶりに頭がスッと涼しくなるような感覚を覚えました。ほんの刹那的な貧血症状です。
家にこもっているときは静かにしているので、こういう感覚を覚えることはありません。先に下った台地を上っているときでもありました。立ち止まって様子をみましたが、それっきりなんでもないようです。
帰路も廣徳寺脇を通ったので、やっぱり参拝して行くことにしました。
先日、偶然開山忌の賑わいを見たのが夢のようで、この日はまた無人の境内です。
お賽銭を上げたあと、本堂左にある不昧軒という集会所の裏手へ……。開山忌のときはここで茶菓の接待があったようですが、この日は入口も閉じられていて、もちろん無人。
裏手には高台があり、石段を上ると、歴代住職の墓碑(歴住碑)がありました。
開山は大路一遵大和尚と読めました。「遵」の音読みは「ジュン」もしくは「シュン」ですから、「いちじゅん」か「いっしゅん」か。
開山忌に出会ったときから、誰が開山であったのか気になっていましたが、「廣徳寺&松戸」をキーワードにWebで捜しても、行き当たりませんでした。
裏に回ると、このお寺は寛政十二年、明治二十二年、大正十二年と三度の火災に遭って全焼しています。そのため第十一世から第二十四世までの住職の名がわからないという旨が彫ってあります。
名前がわかったので、再度検索してみたら、ヒットしました。
「たいろいちじゅん」と読むのです。ただし、Webでは僧侶としての事跡が取り上げられているのではなく、長寿の人としてでした。
なんと! 生まれたのは応永六年(1399年)、示寂は永正十五年(1518年)というのですから、百二十歳まで生きたことになります。
時は室町時代。驚くべき長寿の人です。
廣徳寺が開かれたのは寛正三年(1462年)です。大和尚六十四歳のとき。
普通ならすでに隠棲している年齢です。住職を務めても、精々十年がいいところ……と思われるのに、なんと五十年以上も寺を守ったことになるのですから、恐るべきことです。
静岡県袋井市に可睡斎というお寺があります。曹洞宗の専門僧堂がある古刹で、東海一の禅道場といわれるところです。
袋井市のホームページを視ると、このお寺の開山(1394年)が大路一遵、と紹介されていますが、大路大和尚の生年と開山の年の辻褄が合いません。
伊藤正士さん(故人)という方がつくられた「遠州史跡めぐり」というホームページによれば、開山は如仲天ぎん(にょちゅうてんぎん)大和尚で、大路大和尚は五世に当たると記載されています。肝心の可睡斎のホームページには開山のことは何も記されていません。
この日はもう一つ初めての場所に足を向けました。大谷口城を築いた高城胤吉所縁の弁財天が祀られた弁天台です。
参道入口の隣にあって、道路から微かながらも見えるのですが、境内を経由しないと行けません。
石の扉で閉じられていて中を見ることはできませんが、ご神体の大きさはわずか一寸八分(約4センチ)の高さといわれています。
石塔左側に、根木内から大谷口に城を移したとき、弁財天もここに移したという銘が刻まれているらしいのですが、風化しているのと場所が暗いのとでまったく読めません。
ちょっと疲れて帰宅。
翌日出向いた面接は不採用。履歴書を郵送しておいたところからも面接はしない、という連絡があって、また鬱ぎ込みました。
気の持ちよう一つ、とは考えるものの、身体の調子もどんどん悪くなって行くようです。
↓この日歩いた場所の地図をつけました。
http://chizuz.com/map/map69495.html