[↑ ※上野英信さん【眉屋私記文学碑を除幕する屋部中学校生徒会の生徒=19日、名護市の屋部親水公園】(琉球新報、2021年5月21日)]
(2023年08月08日[火])
《苦難の近代沖縄民衆の歩みを描いている》、上野英信さんの『眉屋私記』。《日本が近代化を進める中、社会福祉は後回しにされた。苦難の道を歩まざるを得なかった沖縄の民衆の姿が丹念に描かれている》、《眉屋私記の時代から1世紀過ぎた沖縄では今も貧困が残る》。
キシダメ政権は軍事費倍増し、軍事国家に。新軍事基地のために、辺野古や大浦湾に大量の土砂をぶちまけ、出来もしないのに血税という大金をドブガネ。普天間は返還されることも無く、辺野古は破壊「損」。一体何のための「血税」なのか。《標的の島》々となり、踏んだり蹴ったりではないか…。
『●県内初の記録文学碑『眉屋私記』、上野朱さん「屋部の人の誇りや民衆史を
後世に残すためのもの。英信も心から感謝し、喜んでいるだろう」』
《屋部支所に隣接する屋部親水公園で19日、「眉屋私記」の
文学碑除幕式が開かれた。記録作家・上野英信さんが名護市屋部の
山入端一族(屋号・眉屋)の歴史を記した代表作。
県内初の記録文学の碑だ…▼「屋部の人の誇りや民衆史を後世に
残すためのもの。英信も心から感謝し、喜んでいるだろう」。
碑の前で上野さんの長男の朱(あかし)さんが語った》
『●<金口木舌>《眉屋私記の時代から1世紀過ぎた沖縄では今も貧困が
残る。聖人を待たずとも安心して暮らせるよう福祉の充実が必要だ》』
「琉球新報のコラム【<金口木舌>「眉屋私記」とサンタクロース】」
《名護市屋部が舞台の上野英信の「眉屋私記」。1908年に
炭鉱移民でメキシコに渡り、その後キューバに移った山入端萬栄。
妹のツルは、貧しさから辻に身売りされた ▼日本が近代化を
進める中、社会福祉は後回しにされた。苦難の道を歩まざるを
得なかった沖縄の民衆の姿が丹念に描かれている…
眉屋私記の時代から1世紀過ぎた沖縄では今も貧困が残る》
琉球新報のコラム【<金口木舌>上野英信さんの功績語り継ぐ】(https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1761918.html)によると、《▼屋部地域の歴史が凝縮されたような公園内には「眉屋私記」の文学碑が建つ。地域住民は87年に亡くなるまで、か弱き人々に光を当て続けた功績を大切に語り継いでいる》。
『●「「慰安婦」問題と言論弾圧」
『週刊金曜日』(2014年11月14日、1016号)について』
「三木健氏【本 推理小説さながら心の闇に挑んだ労作/
『上野英信・萬人一人坑 筑豊のかたほとりから』河内美穂=著
現代書館】…《「筑豊の炭住長屋を改造して施設の「筑豊文庫」を設立
…「英信は過去を忘れた訳ではない。…葬り去ったわけでもない。
…過去を背負ったまま、天皇制のゴウカキ(業担き)として生きる。
…その罪業を担い続けていく覚悟だったのだ」と》。上野英信さんは
「「侵略する側」にいた過去に戦後、どう向き合った」のか?」
『●『キジバトの記』読了(1/3)』
『●『追われゆく坑夫たち』読了(1/3)』
『●『追われゆく坑夫たち』読了(2/3)』
『●『追われゆく坑夫たち』読了(3/3)』
『●上野英信さんは「「侵略する側」に
いた過去に戦後、どう向き合った」のか?』
『●《エネルギーのルツボ》《火床》の《暗い地の底》にて…
【セレクション (3)「地の底の声筑豊・炭鉱に生きた女たち」】』
「上野英信さんと筑豊文庫。《筑豊よ 日本を根底から変革する
エネルギーの ルツボであれ 火床であれ 上野英信》…
「暗い地の底」で。…そして、やはり、山本作兵衛さん。」
『●《内閣官房は文化審議会とは別の有識者会議を設けて「明治日本の
産業革命遺産を推薦する」と…。最後は官邸主導の政治決断となり…》』
『●軍艦島を始めとする「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産に
…ユネスコでの日本側のアノ「約束」から履行してみては如何だろうか?』
『●〝宿題〟も提出せずに、佐渡島金山を持ち出す…《「約束破りな上、
二枚舌を使う」という国際社会からの信頼を失墜させる自殺行為》…』
「上野英信さん『追われゆく坑夫たち』には、《Yさん…「…」と
鉄棒をさすりながら勤労係が言いました。こうして私は海のなかの
恐ろしい監獄島――三菱端島炭鉱で働くことになりました》」
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【https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1761918.html】
<金口木舌>上野英信さんの功績語り継ぐ
2023年8月8日 05:00
金口木舌 上野英信 渡波屋 眉屋私記 出ニッポン記
名護市屋部の海岸沿いの公園に小さな岩座がたたずむ。「渡波屋(とわや)」と呼ばれ、地域の拝所であり、移民や出稼ぎで、屋部の地を離れる人々を見送る別れの場所でもあった
▼遠く海外を夢見て、旅立つ若者らを乗せた汽船が名護湾の沖を通ると、岩座の頂点で親族らが松の枯れ葉をたいた。別れの白い煙が立ち上り、航海の無事を祈ったという
▼屋部地域の山入端一族の歴史をたどった「眉屋私記」の書き出しもここから。丹念な取材で近代沖縄の歩みを記した著者は記録文学作家の故・上野英信さん。7日で生誕100年を迎えた
▼炭坑労働の闇を数々の作品で描いた。「出ニッポン記」は沖縄民謡になぞらえ、南米に移住した炭坑離職者を「石炭ぬ喰ぇーぬくさー」と表現。沖縄移民と炭坑労働を「日本移民史を血に染める、もっとも象徴的な二つの大集団」と、その苦難を記した
▼屋部地域の歴史が凝縮されたような公園内には「眉屋私記」の文学碑が建つ。地域住民は87年に亡くなるまで、か弱き人々に光を当て続けた功績を大切に語り継いでいる。
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