阿部ブログ

日々思うこと

昭和通商と言う会社

2012年03月23日 | 日記
品川の青物横丁に塗装工事をする「昭和通商」と言う会社がある。
品川シーサイドから京急・青物横丁駅に歩くと左手にある。へぇー、あの会社と同じ名前だ!

あの会社とは戦前アヘンを取り扱っていた商社「昭和通商」のこと。

「昭和通商」の前身は「泰平組合」と言う。
組合は、明治41年6月にに大倉商事、三井物産、高田商会の3社が共同出資して設立。目的は、日露戦争後の旧式銃・火砲など軍の兵器の払い下げを受けて、アジア各国に輸出する事。
武器輸出は、各国の軍隊だけでなく、軍閥なども商売相手となり、必然的に非合法な組織との接触も増える事となった。
更に武器輸出の決済には「金」や「銀」など貴金属だけでなく、時にはアヘンやヘロインが用いられる事もあり、これら麻薬の取り扱いも行うようになっていた。しかし旧式の武器輸出では競争力は無く、泰平組合の事業も伸び悩む事となる。

そこで利益の多い麻薬ビジネスが拡大する。これは日本軍の要請により三井物産がトルコやイランの阿片専売公社「アミン」などからアヘンなどを買い付け、軍に納めていた。満州国成立以前は、三井物産が麻薬輸入を独占。
しかし満州国の建国後は三菱商事が満州国内での権益を確立。以後、三井物産は満州国以外の中国国内を担当した。

満州事変以降、中国大陸における日本の占領地が拡大。昭和13年12月には占領地政策と一元化する為、「興亜院」が設置される。この興亜院が、占領地管理の一環として「阿片政策」を実行した。
「あー、うー」の大平総理大臣は、興亜院設立当初から、蒙疆連絡部・経済課に所属し中国大陸における阿片政策の計画推進を担当していた。興亜院は「阿片院」とも呼ばれたので、大平正芳はその中枢にいたのである。

さて興亜院設立後の昭和14年4月20日には、陸軍の要請で「泰平組合」を発展的解消し高田商会は参加しなかったが、三井物産、大倉商事、三菱商事の3社が出資して「昭和通商」が立ち上がった。資本金は各社折半でそれぞれ500万円を拠出したが、三菱商事はこれより少なかったとも言われる。何れにせよ1500万円の資本金でスタートした。

4月20日の昭和通商の創立総会には、陸軍から、武藤章、岩畔豪雄。三井物産から石田礼助、大倉商事から宮田準一と原、昭和通商の社長となる堀三也、それと佐島敬愛が出席。三菱側から出席者は無かった。

昭和通商の本社は、日本橋小舟町。
昭和通商は、最盛期には3000名を超える陣容となり、6年程で消え去った会社だったが、出先は中国各地、アジア、北米、欧州と世界を網羅する程。まあ出資する3商社の支店・支社に間借りすることもできたろうから驚くこともないが。

この昭和通商には、調査部があった。調査部長は佐島敬愛。
京都出身の佐島は、渡米し三井物産ニューヨーク支社に勤務した。本店採用ではなく現地採用。
佐島は、三井物産退職後、満州航空に就職。その後、昭和通商の取締役調査部長に就任。因みに、大株主なので三井物産代表取締役社長の石田礼助も非常勤取締役であった。戦後は、国鉄総裁となり「粗にして野だが卑ではない」と国会で発言したのは有名。
石田は戦後、三井物産における自身の話を公の場で話す事は無かった。

佐島は、アジア版アラビアのロレンスと称する人もいるが、初代のCIA東京支局長のポール・チャールズ・ブルームが主催する「火曜会」と言う夕食会の常連で8人のサムライと呼ばれた一人。
当時の佐島は、信越化学に関係していたが、他は、朝日新聞論説主幹の笠新太郎、評論家の・浦松佐美太郎、政治学者の蝋山政道、農業経済学者の東畑精一、前田多門や松本重治(国際文化会館理事長)、松方三郎(共同通信社専務理事)ら8人。

昭和通商の調査部には中野学校卒業者が配置(配属)され、諜報活動や麻薬関係の仕事を担当した。昭和通商は国策会社として汚れ役を演じ、麻薬ビジネスで大いに興亜院や陸軍などに莫大な利益をもたらし、大いに貢献した。
この昭和通商とこれに係わる人物群により、戦後の覚醒剤や麻薬関連、及び密輸に係わる事柄など、昭和を経て平成の世に至る現在においても、その力は健在。