フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

多言語使用者に聴く

2006-12-16 23:49:16 | research
今日は神田外語大で言語管理研究会の第10回になる定例研究会を行いました。

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テーマ:多言語話者の言語管理(その2):日本における多言語使用者と彼らの言語意識

話題提供者:
ラビンダー・マリク(IES全米大学連盟東京留学センター代表、浦安在住外国人会長)
アリス・リー(神田外語大学、元Director of Programs for Trans-Pacific Exchange at Stanford University)
中川康弘(神田外語大学留学生別科)

コメンテーター:サウクエン・ファン(神田外語大)
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多言語社会という言い方が、複数の言語が使用されている社会という意味に使われることが多いわけですが、それよりも一人の人間が複数の言語を使用するときの言語の管理について考えることに関心を持っています。

マリク氏はインド出身でパンジャブ語が母語、ウルドゥ語が教育言語、そしてヒンディ語が学問語、大学では英語と、もともと多言語話者だったわけですが、日本では30年の生活のうち、20年教鞭をとった国連大学を退職してから日本語も習得していったそうです。彼にとっては英語も日本語も今の生活の中で必要なものであると言っていました。これはリー氏も同様な意見でした。台湾の北京語家族に生まれながら9歳で家族とともに米国に移住したリー氏は北京語の書き言葉に親しむと同時に英語を自分の母語としていきます。それでも一般的なアメリカ人とは異なる自分を持っているわけです。今の生活、職業をする上で十分な日本語をもっていると言います。

おそらく多言語使用者とはこの日本という環境で、本人がのぞむ生活、知的活動を複数の言語を駆使することで実現している人のことだと思います。ある活動にはある言語が使われ、ある活動には複数の言語が使われるというように、必要に応じたエコロジー的な管理が行われているのだと思われます。

もう1つ、興味深かったのは、言語だけでなくコミュニケーション、また文化については、むかしは同じようにすることに気をつかっていたが、今はもう気にしないということです。ある程度までは相手に合わせるし、採り入れるにしても、自分なりの採り入れ方にとどめて、自分自身を失わないということでした。

多言語使用者にも自分のベースとなる文化があるのですが、それは無条件に従っている文化ではなく、すでに自分の中で濾過された「母文化」なのでしょう。居住する社会の文化についてもある程度までは採り入れられています。そのようにして複雑に複合した文化規範が多言語使用者の自己を作っているのだと思います。だから、モノリンガルからはどこに属していないような不思議な感覚を与えてしまうことにもなるのかもしれないのです。
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