フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

道草考その3

2007-11-06 00:41:14 | today's focus
昨日初めて家族で映画「Always続3丁目の夕日」を観に行ってきました。このブログは映画批評でもないし私にもそんな芸当は出来ないのですが、第1作よりやや話題を拡げすぎた観はありましたが、かなり楽しめたし、次から次へと風景が変わっていく日本ではコンピューターを使った時代の再現は、とても有力な映画の方法だと思いました。

それから、3丁目の住人は面白い連中ばかりですが、接触場面研究者として1つ不満を言えば、ここに外国人がいたらどんなに奥行きが出たろうかということですね。在日の人たちは敗戦後に市民権を失い外国人となっており、朝鮮戦争は53年(昭和28)に停戦となっています。また北朝鮮への帰国運動が59年(昭和34)から始まります。中国残留孤児の引き揚げ事業が終了するのはその前年。日本は60年(昭和35)には安保闘争が始まって(夕日町の周りもデモが溢れたはず)、そこから本格的な高度経済成長と、内向きの消費生活が作り出されていくわけです。58年、59年というのはそうした動きの直前にあたる時期であり、外国人があの街にいても少しも不思議ではないのにね。外国人も含めてきっと近所づきあいが成り立っていたはずなんです。

さて、道草について考えていましたが、道草と切っても切れない関係にあるのが空き地です。なぜ道草をするかと言えば、周りに現実世界の約束事から外れてもよいと思えてしまうような何かがなくてはならず、昔はその役割を空き地が果たしていたのではなかったろうかと思います。夕日3丁目からは東京タワーがすぐ目と鼻の先に見えていて、どうやら虎ノ門あたりの町内会なのだそうですが、それでも錆び付いた自動車がうち捨てられている空き地が見えました。そこで子供達が内緒で子犬を飼ったり、医者が狸を探したりするんですね。そして最後にはその空き地に有刺鉄線が張られて、工事が始まるところがあって、空き地の喪失が描かれています。

道草が決められた時間と活動から自由意思で逃れて「価値」のないものを探す旅だとすれば、空き地もまた無用の地であって、しかも怖い場所でもなく、ただ放っておかれている場所なのだと思います。確かに無用の地ではあるのですが、それだけに多くの自然がそこに集ってもこれる場所になっているんですね。最近のエコパークなんかはわざとそんな場所を作っているわけです。自然の集うところに思考の種が見つかる、それが空き地の意味でしょうし、道草の副産物なのでした。
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