フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

81年の閉塞

2005-09-25 23:57:41 | old stories
なぜぼくはアメリカに行こうと思ったのかということなのだけど、今日の話はひょんなところから始まる。

陰山英男さんは百マス計算などで有名な小学校校長だが、ぼくはそれは知らず、東京新聞の毎週の小さなコラムで面白い人だと思っていた。先日その人の新書を購入した。実はコラムのほうが面白かったのだが、その中に書かれていた幾つかのことが参考になった。それは、70年代初頭に教育政策の改訂があり、詰め込みがとても増えたということ。これは当てずっぽうで言うと、詰め込み教育だけではなく、.教育のしめつけもまた進んでいった時期ではなかったかと思う。

90年頃、モナシュ大学のセミナーでスピーチをした早稲田大の社会学のある先生は学生運動後に文部省は学生に対する締め付けを強めて、それが80年前後に最も強くなったと話したことがある。北大でも老朽化を理由に、学生の自治会が入っていた木造の会館を取り壊したり、旧制高校のような破天荒が売り物だった恵迪寮も新築されていった時期でもあった。

もう1つは、日本の社会生活が81年を境に変わっていったと言うこと。陰山氏によれば、それはたとえばコンビニがこの年を境に急増していった。テレビが家族に1台から一人1台になり、テレビゲームが始まっていったこと、など生活が夜型、外で遊ぶより家で遊ぶように変わっていったという。付け加えるなら、カラオケがブームになり、歌はギターでみんなで歌うのではなく、カラオケ・ボックスの中で勝手に歌うようになったこともその変化につながるのだろう。大人も子どもも屋内に閉じこもっていった時期だったのかもしれない。

この2つのことは果たしてべつべつのことなのだろうか?それとも底流は共通しているのだろうか?ぼくにかぎって言えば、80年前後というのは、なにか閉塞感が漂っていたものだ。息苦しくて仕方がなかったのだ。それは大学生としても、社会の様子にしても、そして人々の生活にしても、そんな気がしていたようなのだ。

大学の友人の下宿の先輩がアメリカに交換留学をしているという話を聞いたとき、そんな道があったのかと思ったようだ。81年当時、まだまだ外国は遠かったし、留学など庶民には夢の夢だったから、もちろんぼくも考えたこともなかったのだ。しかし、その時、「そんな道が」と思ったために、ぼくは交換留学制度のあった法学部に進み、TOEFLを受け、4年の春には学内の留学試験を受けることになった。英語が得意ではなかったぼくはその試験で2位になり、法学部からは毎年2名選ばれていたので、これで日本から逃げられるとほくそ笑んだのだが、その直後に落とし穴があった。なんとその年から留学は1名だけになったと知らされたのだ。6月、7月と呆然として時間だけが過ぎていった。なんてことだ、これから何をしたらよいのか?

しかし、7月末になってゼミの先生から電話があり、「もう1名行けることになったけど、君行きますか?」と言う。「もちろん行きます」

そんなふうにして、ぼくは日本をしばらくさよならすることになったのだ。
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