フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

コソヴォの指揮者

2009-06-25 00:23:59 | old stories
コソヴォという名前に関わったことはない。

ぼくが訪れたのはまだユーゴスラビアという国があった頃のサラエボやドブロブニクだけだ。ウィーンの南駅の横のバスターミナルから、コーヒー豆の密輸団といっしょに、深夜バスでユーゴスラビアに向かった。国境、検問と、何度も止まるたびに、密輸団はごそっごそっと、警察に連行されていき、朝、サラエボに着いたときにはほんの一握りの外国人しか残っていなかった。しかし、サラエボは魅力のある街だった。まだ多文化が崖の断層にみごとに堆積するような、艶のある雰囲気を醸し出していた記憶がある。海岸の城塞都市を作り上げている大理石のドブロブニクについては言うまでもない。

だが、その後、5年も経たないうちに、そこは敵意の充満する土地に変わる。コソヴォの名前は、そのユーゴスラビアが崩壊した後に、世界に知られることになる。そして今も不安定な政情は変わっていない。じつはコソヴォのその土地は何百年も同じことが繰り返されてきた。Wikkiを調べると、暗澹とする歴史が延々と書きつづられている。

もう先週になるが、BSで「戦場に音楽の架け橋を~指揮者 柳澤寿男 コソボの挑戦~」を観て、まだそれが頭に残っている。この人は、ようやく復活したコソボ交響楽団の正指揮者として迎えられた人だが、音楽を聴く心がまだ残っているとも思われないところから、音を復活させようとしている人だ。そこから彼は、セルビア人の住む地区とコソボの主要な民族のアルバニア人が住む地区が橋によって隔てられているミトロビッツァで、多民族の小さなオーケストラのコンサートを企画するのだ。演奏家に頼むだけでもたいへんなことだ。演奏家にとってもその仕事は命がけだからだ。どこから弾や匕首が飛んでくるかわからない。

音楽はいつの時代も政治と関わってきた。それは、音楽がつねに境界を越えて拡がる力をもっていたから。だから音楽を政治に利用されないために、つねに人は政治を解体していくように音楽をつくり出していかなければならないのだろう。コソヴォで指揮者であるということは、きっとそのようにして政治的にあることなのだと思う。
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