フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

ハンガリーの山野を歩いて

2009-11-11 20:44:30 | old stories
朝、石畳の道を自転車を走らせた。初日だと言うのにちょっと遅れてしまった。
昇ったばかりの陽の陰に霜がうっすらと残っていた。息が白い。

倉庫や機械が眠っているような古い建物の並びから中庭のほうへ入っていくと、小さな看板が見える。その横の鉄の階段から2階に上がり、扉を開けた。ひっそりとしているが奥のほうからざわざわと声が聞こえている。

受け付け係に目を合わせてから、奥の教室に向かった。緊張。知り合いも一人もいない。静かに待っている人もいれば、すでに話に華が咲いているところもある。人数は10名くらい。

すぐに女性の先生が来て挨拶が始まる。ドイツ語で。教科書が渡された。A4のイラストや写真が多いDeutch Activeという教科書。それに同じ体裁の練習帳。

アルゼンチンから遊学中の少年が一人、黒いスカーフ(ヘジャブ)をつけたイラン人の中年女性が数人、ヒゲを生やしてドイツ語ができるトルコ人、そしてポーランド人の青年が二人、そんな感じだ。

この学校は政府から援助があって、移民がドイツ語習得しやすいように安い学費で学べる。ドイツ・インスティチュートの学費はとても個人で払えるものではなかった。あれは外交官や企業派遣のための学校だと言われていた。

先生はぼくから見るとやや学生がドイツ語で話すのは当たり前だという考えが強かったように思う。コメントも少しきつかった。そのせいかどうか知らないが、イラン人の女性たちは一人、また一人と学校に来なくなっていき、3ヶ月後には誰もいなくなった。文化の違いがあったと思う。アルゼンチンの少年はとくにまじめでもなく楽しみながら授業を受けていた。しかし自分はヨーロッパ文明の申し子だと思っているようで、とてもプライドが高そうだった。ヨーロッパ優越主義は、当のヨーロッパよりも南米に生き残っているという話を聞いたことがある。一番話が出来たのはトルコ人の男で、彼は誰ともよく付き合うことができた。彼の話によれば、トルコで新聞の編集をしていたが、逮捕されそうになって亡命してきたのだと言う。今も国際警察に手配されていると言っていた。

そんな中にポーランドの青年が二人いて、一人は背が高くブロンドの髪の持ち主、もう一人は眼鏡をかけて中肉中背でややうつむき加減。どちらも工場労働者だったと言う。それ以上はあまり話さない。東欧の無口な工場労働者が何者かはじつはだれにもわからないことだ。医者だったかもしれない。二人は今年の春先、まだ雪の残っていたハンガリーの山野を歩いて、オーストリアとの国境を越えてきたのだと話していた。なにも知らないぼくはただそんなこともあるだろうとしか思わなかった。

これが、以前に紹介したことのある藤村信の遺作を昨日読んでいて思い出したベルリンの壁崩壊1年前の話だ。

ポーランドからの脱出者は、彼ら二人のように前年から増加していた。しかしまわりにはそんな気配はなく、ただ日常が続いていた。東欧に行くときだけはビザを取ったり、銃を持った国境警備兵の検問に緊張したりしたが、壁(国境)のこちら側では落ち着いた生活が続いていた。
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