RURUのひとりごっち

「博多にわか」な「独り言」と「ごちそうさま」を鍋に放り込んでなんだか煮てみたら・・・ひとりごっちが生まれました。

韓国のクーデターに散った我が卒業設計

2006-12-18 16:08:31 | あんたそうと?

(あるビルの名版/スホウビル?)

めっちゃ寒いです
韓国じゃ大雪だってさ
きのうスーパーまでの道のりが
あまりに寒くて風が強くて
歯磨き粉もシャンプーも目薬も
買うのを忘れてしまいました
北風のせいです・・・きっと
ところで詰め替え用液体生活必需品は
本当に小ごみ化の役に立っていますか
シャンプー、リンス、ボディーシャンプー
毛糸おちゃれ衣洗い、柔軟剤、ハンドソープ
台所洗剤etc・・・こぼさずに上手に入れてますか
るるは下手です、でもたまに上手に入れれると
ひとりであります。
じょうろを使ってみようかな・・・

英国ブレア首相汚職疑惑、クリーンさも時間と共に黄ばんでくるのか
米国ブッシュさん亡き後、ぜひとも大統領にはバラク・オバマ上院議員だよね
彼が大統領になったら、アメリカも良いほうに替わるに違いない・・・
と、思わせる何かがあるような気がするのは、私だけ?
その時には日本の首相ももう安倍さんじゃないような気もする。
希望的観測・・・。

就職難民で大学の研究室にいたとき、たまたま、るるの大学と友好を結んでいた
韓国の大学に、るるの卒業設計が友好企画展示会に出す作品の一つに選ばれて
その件もあって、嬉しいことに先生達が、るるに韓国へ行っておいでと言い
旅費は学校から、先生達からお餞別も貰って、楽しみにその日を待っていたら
本当に間が悪いとはこのことか
韓国でクーデター、朴正煕(パクチヨンヒ)元大統領が金載圭(キムジエギユ)
中央情報部長に射殺されたのである。いわいる朴大統領暗殺事件である。
そして即刻、戒厳令である、もちろん、るるは韓国へは行けなかった
るるの卒業設計は韓国できっと息絶えただろう

その時始めて、隣国の政治というか歴史が自分に関わった瞬間でもあった
ちょっとパクさんについて記録しとこうっと。

朴正煕という人は、1917年、日本統治下の朝鮮の山村で生まれた、高木正雄と
いう日本名を持ち、子供の頃は日本人として暮らし、彼は幼いころから軍人に
強く憧れていたものの、父親の意向でしぶしぶ教師になる。師範学校で、軍事
教練に赴任していた有川圭一関東軍中佐が、差別なく朴を扱ったため、強く感
化され以後深い絆で結ばれる。

有川中佐の勧めで朴はまもなく教師を辞め、満州軍官学校へ入学する。
旧大日本帝国陸軍士官学校を出て、その後、韓国の国家警備隊の士官学校に入
りなおし、そこも卒業。この頃、北朝鮮のスパイとして拘束された経験もある
らしい、朝鮮戦争停戦後、朴はアメリカに留学1961年、「軍事革命委員会」の
名の下張都暎(チャン・ドヨン)らとともに軍事クーデターを起こし、軍事政
権のトップに立った、1963年には軍を退役して、正式に大統領候補として、立
候補するそして自ら大統領に就任し、独裁色を強めていく。

1965年には国民の反対を押し切って日本と国交を正常化する。この過程で朴は
国民から「親日派」といって罵倒された。韓国では親日派=売国奴である。

しかし、韓国における感傷的で何の利益もない「反日主義」よりも日本の資本
を導入して経済を活性化させ、その後で軍事色を薄めて西欧型民主主義に移行
すればいいと考えていた。彼の近代化モデルは明らかに幼いころ育った日本と
満州国であった。そのためどうしても「反共」で一致している日本の協力が必
要であり国交正常化は不可欠だった。しかし国民の多くは感傷的な反日主義に
とらわれ、朴の主張を理解しなかった。

自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても去勢するなどし、独裁
体制を維持し続けていた朴だったが、1974年8月15日には在日韓国人・文世光
に銃撃を受け、夫人の陸英修が死亡。
釜山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によ
って射殺された。が、彼の独裁下に於いて実現した漢江の奇跡と呼ばれる経済
発展や治安の良さを再評価する動きも近年になって見られ、独裁的でありなが
ら歴代政権の中で潔癖とも言われる彼の治世を懐かしむ声は今でも少なからず
存在する。(サイト/韓国の近代化より抜粋引用)

という軍事や政治にどっぷりの波乱万丈な人生だったのです。
でもおかげで、るるは韓国に行けなかったことで、かえって韓国に興味を抱き
ましたが・・・でも行きたかったのにさ
出来れば平和な韓国に

今日の詩

萩原朔太郎 宿命より)

  パノラマ館にて

 あふげば高い蒼空があり、遠く地平に穹窿は連なつてゐる。
見渡す限りの平野のかなた、仄かに遠い山脈の雪が光つて、
地平に低く夢のやうな雲が浮んでゐる。
ああこの自然をながれゆく靜かな情緒をかんず。
遠く眺望の消えて盡きるところは雲か山か。
私の幻想は涙ぐましく、遙かな遙かな風景の涯を追うて夢にさまよふ。
 聽け、あの悲しげなオルゴルはどこに起るか。
忘れた世紀の夢をよび起す、あの古めかしい音樂の音色はどこに。
さびしく、かなしく、物あはれに。
ああマルセーユ、マルセーユ、マルセーユ……。
どこにまた遠く、遠方からの喇叭のやうに、錆ある朗らかのベースは鳴りわたる。
げにかの物倦げなベースは夢を語る。
「ああ、ああ、歴史は忘れゆく夢のごとし。
時は西暦千八百十五年。所はワータルローの平原。
あちらに遠く見える一葦の水はマース河。
こなた一圓の人家は佛蘭西の村落にございます。
史をひもとけば六月十八日。
佛蘭西の皇帝ナポレオン一世は、この所にて英普聯合軍と
最後の決戰をいたされました。
こなた一帶は佛蘭西軍の砲兵陣地、あれなる小高き丘に立てる馬上の人は、
これぞ即ち蓋世の英雄ナポレオン・ボナパルト。
その側に立てるはネー將軍、ナポレオン麾下の名將にして、
鬼と呼ばれた人でございます。
あれなる平野の大軍は英將ウエリントンの一隊。
こちらの麥畑に累累と倒れて居ますのは、皆之れ佛蘭西兵の死骸でございます。
無慘やあまたの砲車は敵彈に撃ち碎かれ、鮮血あたりの草を染めるありさま。
ああ悲風蕭蕭たるかなワータルロー。
さすが千古の英雄ナポレオン一世も、この戰ひの敗軍によりまして、
遠くセントヘレナの孤島に幽囚の身となりました。
こちらをご覽なさい。
三角帽に白十字の襷をかけ、あれなる間道を突撃する一隊はナポレオンの近衞兵。
その側面を射撃せるはイギリスの遊撃隊でございます。
あなたに遙か遠く山脈の連なるところ、煙の如く砂塵を蹴立てて來る軍馬の一隊は、
これぞ即ち普魯西の援軍にして、ブリツヘル將軍の率ゐるものでございます。
時は西暦一八一五年、所は佛蘭西の國境ワータルロー。
――ああ、ああ、歴史は忘れゆく夢のごとし」
 明るい日光の野景の涯を、わびしい砲煙の白くただよふ。
靜かな白日の夢の中で、幻聽の砲聲は空に轟ろく。
いづこぞ、いづこぞ、かなしいオルゴルの音の地下にきこゆる。
あはれこの古びたパノラマ館! 幼ない日の遠き追憶のパノラマ館! 
かしこに時劫の昔はただよひゐる。
ああかの暗い隧路の向うに、天幕(てんと)の青い幕の影に、
いつもさびしい光線のただよひゐる。








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