(白い花と黒いカラス 別に 白黒つけたいわけじゃない)
昔「純喫茶」と表示された喫茶があった
わずかだけれど
東京や大阪あたりにはまだ存在している
スタバやドトールやベローチェ的カフェも
お酒を出さないし女給さんがフリフリエプロンで
出迎えてくれないから分類上「純喫茶」だ
まあもう死語らしいけど
「純喫茶に休憩にいこうか~」
などと言ってみたりしたら
結構おやじ族に受けるかもしれない
純喫茶はお酒を出したり女給さんの接客がある
大正のころのあのカフェと区別する為の純らしい
「特殊喫茶」っていうらしい女給カフェをね
秋葉族のご主人様~喫茶(名前が出てこない)
は
「純喫茶」全盛の頃の
「特殊喫茶」の流れをくむねきっと
だって
エプロン姿の女給さんに迎えられたいのでしょ
男の人は今も昔も
意味が違う?
もえ~萌え~と
モガやモボの大正ロマンは
似て非なるものなのか?
似てるがなあ
違うのはスカートの丈だけよ
純 つながりなんですが
「純文学」ってのは
ただの文学とどう違うのか
と思う
観念的な文学のことをいうの?
哲学と文学の間くらいのやつか?
良くわからないが
純喫茶のついでに考えるのもなんですが
つまり
女給的な臭いが無い文学?
酔えない文学かな・・・。
なら
普通?の文学は
特殊文学とよぶべきじゃないの?
純という言葉に敬意を表して
まあ
その特殊文学の第138回芥川賞受賞作
「乳と卵」川上未映子作を
読むつもりは無かったのだけれど
駅の売店で掲載誌の文芸春秋をぱらぱらして
審査員表とインタビューのところを
ナナメ読みしてたら
出身高校がるると同じだったりして
審査員評も石原慎太郎氏一人が
私は評価しないと酷評
(その他の作家さんたちは好印象な選評)
だったので
読んでも損はないかも(笑)って
ちょっと思って
まあ読んでみて
なるほど生まれ土壌が近いせいか
違和感無く読めたので
予定通り損はなかった
樋口一葉が好きでオマージュとしての感覚
というか影響を受けていますと
インタビューでは答えていた
オマージュ本普及委員会代表としては
いいねいいねと歓迎する
歌手としてはどうなのか知らないが
歌う系小説家は結構いるし
がんばってほしいと思う
内容的には
女給的文学と言ってみとこう
とりあえず「落ち」として
だけのことですが
娘の卒業式は月初めの頃に終わったのだが
スピーチについて考える出来事があった為に
思いだしてみた
学園長や父母会会長などのスピーチも
なんだかどれも心に響かず
なんだか教養をひけらかそうとして
逆に教養のないことを露呈する
内容のないスピーチで眠い時間だった
在校生送辞も無難にまとめた感じの
長くて印象は薄いし
よどみなく読み上げるのだが
終わったとたん
どんな内容だったのかさえ
思いだせない感じのものだった
しかし
卒業生答辞が始まると
一気に目が覚めた
力強いが少し癖のある
よく通る大きな声で
語りはじめた卒業生代表の女子の声に
聞き入り聞きほれてしまっていた
彼女の言葉ひとつひとつ語る声
まことにインパクトの濃い
正直ないい答辞だった
『ああ若者がいる!』と思った
耳が少し悪いから喋り方に特徴があるのだと
後でわかったのだけれど
言葉一つ一つを
大事にかみ締めるように
喋っているようだったし
この答辞が聞けただけで来たかいがあったと
思わせてくれた 「ありがとう!」
彼女に心中呟いたのだった
スピーチというものは難しいもので
上手にまとめあげた内容でも
心に届かぬスピーチは
良いスピーチとはいえないのだろうし
語る声と間(ま)によっても
その印象は変わるから
個性というものも大事であるし
語る言葉が単なる言葉でなく
想いに変わる時
初めて他者に語りかけた
と言えるのかも知れぬと
妙に納得しつつ
本日の本題に入ろうと思う
(まだまくらかい!)(笑)
語るとはなんなのかとよく考える
人が集まり人が語ったこと喋った言葉を
深く考え過ぎて
いつも独り疲れ果てるということの繰り返し
なので
この性質を変えたいのだが
なかなか難しく
日々不幸なのである
夜がしらじら明るくなっても
脳が睡眠不良でヤンキーで
ちっとも熟睡できぬ
だから人に会いたくなくなるのだった
消化不良の会話のまま
家に戻るためだろうか?
かといって議論をするために会うわけではないから
適当に世間話やなんかで楽しくすごそうって
人は考えて会うからしかたないのだが
議論したくても出来ないのが常で
たまたま
なにかについて意見をいう機会にめぐまれて
自分の意見を述べたとしても
賛同を得たいと思っているわけじゃないし
反対意見でもなんでも構わないから
相手の考えを聞きたいわけなのに
何故か人は
自分の考えは述べないまま
どうもこの人とは意見があわないから
もう話はしないで置こうなどと思うのか
まあそのまま別れの時間になるのだった
意見や考えがちがうから
会話が楽しいと思うのだ
けれど大抵
人は賛同を得たがるか
うなずきを欲しがるかで
意見交換には興味がなくて
酷い時は人の意見を聞くだけ聞いて
うなづいて聞いて
あとでその意見を言った人のいないところで
やっと他の人を相手に
あれどう思う?とかって言う訳だ
『どう思う?』の心は
『違うよね~』なのであり
『あなたもそう思うでしょう』の
賛同強要でもある
しかしその違う意見が聞きたい
だからいる時に言ってくれ~
と
空しいつぶやきシローになる
だから一番いいのは
手近に夫婦で議論ができることなのだが
我が家では
超無口な相方であるという事実に
たんなる会話さえ極まれなわけで
うなだれるしかないのだった
だから
ひとりごっちでぐだぐだ訳の分からぬ
ひとりごとを打ちつづけて
馬鹿な奴とあきれられても
打ちつづけて打ち死にするか
そんなところなんだろう
といっても議論や会話が好き
と言う訳ではなく
生身のコミュニュケーション力が未熟な為に
自分の考えを中途半端にしか
伝えられていないという脅迫観念
みたいなものが常にあったりして
後で自分が何言ってたかを思い出して
あのときあそこは
こう言うべきだったね
と
いらぬストレスを増やし続ける
という呆れ果てた狸の穴なのだ
とどのつまり
きっと気が弱いのだと気がつくわけだ
気というものは元気の素でもあるから
いつも気を強くする何かを求めて生きている
だから
もっともっと人に嫌われるような言動を心がけて
気にならない人になりたい
とか訳の分からぬ考えに惑わされて
気がますます変になる気がするのだった
そんなことより女は 嫁は
めしを作り掃除をして洗濯干して
子育てしてやりくりしてアイロン掛けて
シャンプー詰め替えて安いスーパー探して買出しして
家計の穴埋めに仕事してりゃいいって
ことなんだな
まあそれだけで十分手一杯だが
結局そうして語らない人ばかりになり
世の中
天下り天下りでやられ放題
癒着癒着の裏取り引き年金横領官僚天国
そんな世の中にあまんじて
仕事にはげめと理不尽に螺子の回転はいうわけさ
ねんきん特別便が一億通分
国民に送られる(3月に来た人要注意)
そのうち約30万件は
不備問い合わせがあるだろうと試算されていて
今のペースだと一年に約三千件しか処理出来ないから
つまり問い合わせ処理に百年かかるというのである
と文芸春秋の記事にあったぞ
100年て
もう我らは死んでいないよ
葬式代にも間に合わぬ
で
ねんきん特別便が送られてきた人が
あわてて役所に言ったら
散々待たされた挙句
「手作業ですので1年はかかります」
といわれたらしい
できるなら200歳まで生きろ!
あるいは三十万人で告訴するかしかない!
語りたいが 語れない
語りたければ勝手に語り続ければいいじゃん
ほっといてあげるから
死ぬまで語り続けりゃいい
とほったらかされてありがとう
人間商売めんどくさい
言葉なんて覚えるんじゃなかった