◎和服に袴姿の岡田首相がこちらを向いて端座していた
迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)の紹介に戻る。本日は、「異状ありませんか」の章を紹介する。
異状ありませんか
二十七日未明、用意を整えて、三人は〔森健太郎〕分隊長に首相官邸にゆく旨を報告した。分隊長は「決して無理するな」といった。分隊長も、人命の救助は憲兵の重要な任務の一つであるということで、彼らの行動を承認したのである。彼らは半蔵門の歩哨はどうやら突破したが、三宅坂の歩哨線で追いかえされた。しかし、濠端〈ホリバタ〉から垣根をこえて、参謀本部から陸軍省(いまの尾崎記念館、参議院議員会館の区域)に潜入、省内の憲兵詰所にいた憲兵たちとあい、さらに省内をとおり抜けて、国会議事堂と、ドイツ大使館(いまの国会図書館)の角の歩哨線に達し、「今岡田〔啓介〕首相の処に勅使がこられるので、その警衛のために首相官邸にゆく」と嘘をついて、これを突破し、首相官邸にたどりついた。そして、栗原〔安秀〕中尉に面会をもとめた。官邸正門横の警察詰所でしばらくまたされた。そのとき小坂〔慶助〕曹長は巡査用の拳銃を拾ってポケットにしのばせた。しばらくして栗原中尉や他の将校と面会した。このころ彼らは我事なれりといった按配で非常に気嫌がよく、したがって空気もそんなに険悪ではなかった。そんな関係もあったのか、最初は強く拒絶されたが、機知にとむ問答の末、総理の遺骸引取りのことを取計うこととして、⑴下士官兵にみだりに話しかけぬこと、⑵外部との連絡を禁止する、⑶憲兵の行動は官邸内部とする、⑷その他は将校の許可を要すという条件の下に、官邸内にとどまることをゆるされた。三人の憲兵は、まず官邸へはいれたとよろこび官邸を偵察し、総理救出に対する判断材料を集めることに着手した。
小坂曹長は、はやる心をおさえて、日本間にゆき、問題の女中部屋に達し、あたりに人のないのをたしかめて、部屋にはいって襖をしめた。小坂曹長の著書には「二人の女中は顔色をかえて脅えた様子をしめしたが私は『憲兵だ、心配することはない』と小さいが力のこもった声でいい、すぐに女中をおしのけるようにして、軽く押入の襖をあけた。下段にふとんをしいて、和服に袴姿の岡田首相が、こちらを向いて端座していた。『閣下、憲兵です、救出にまいりました、もうしばらくご辛棒ください』と腰をかがめ声を殺していった。総理は軽くうなずいたが、生命をかけた二日間の籠城にやつれた容貌のなかにも、よろこびと感謝の色が満々としていた」と書かれている。押入の襖をもとどおりソッとしめて、二人の女中に「もう少しですから、がんばってください」というと、二人は、味方と認識して泣きぬれた顔をうれしげに下げた。小坂曹長が廊下にでると、とたんに軍曹以下三名の巡察にばったりであった。はっとして立ちすくむと、軍曹は「異状はありませんか」という。「別に変ったことはありません」と軽く答えると、巡察者はそのまま引きかえした。ホッと安堵の胸をなぜおろした。小坂曹長はその著書で「異状はありませんか」の一言が総理の生存を知ってのことか、若い女中に対する好奇心なのか気になって不安がつのったと書いている。【以下、次回】