goo blog サービス終了のお知らせ 

礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

まだ息のある土井巡査を第一陸軍病院におくった

2020-02-10 02:25:03 | コラムと名言

◎まだ息のある土井巡査を第一陸軍病院におくった

 迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)を紹介している。本日は、「憲兵の場合」という章を紹介する。迫水は、この章および次章「異状ありませんか」を記述するにあたって、小坂慶助著の『特高』(啓友社、一九五三)を参考にしている。

  憲 兵 の 場 合

 憲兵隊側では、五・一五事件以来、軍隊内のクーデター的行動については、いろいろと警戒対策を講じ、情報の収集に努力していたことは事実である、殊に昭和十一年〔一九三六〕一月二十八日から、相沢三郎中佐の永田軍務局長殺害事件の軍法会議がひらかれて、今日でいうところの「法廷闘争」的立場で弁論が行なわれる一方、いろいろの怪文書が一般に散布され、諸情勢はまさに維新断行の機熟せりという空気をかもしだすための運動が活発となってきたので、その警戒をいっそう厳重にして、のちの二・二六事件の首謀者たる、村中〔孝次〕、磯部〔浅一〕、藤田〔?〕、野中〔四郎〕の各大尉、栗原〔安秀〕中尉らのいわゆる「昭和維新」組の行動については内偵をすすめていたらしい。二・二六事件の実行計画の最終案は、二月十八日、二月二十二日の夜の同志の会合で決定されたものであり、当時麹町憲兵分隊では、二月十九日朝、二十五日ごろを期して重臣襲撃を決行するという情報を入手している。そこで東京憲兵隊は、地方よりの応援の私服憲兵を集め、軍首脳部の身辺護衛と、一部急進青年将校の張込尾行を行ない、警戒の態勢を強化した。しかし、当局としても、まさか軍隊が部隊として動くとは、まったく考えていなかったようである。
 小坂曹長の著書によると、二月二十六日午前五時ごろ、首相官邸方向の時ならぬ銃声に、前日来陸軍大臣官邸に勤務中の青柳利之憲兵軍曹は、篠田惣寿外二名の上等兵を引卒して首相官邸に駈けつけた。部隊は憲兵を目の敵〈カタキ〉にしているので、容易に官邸にはいることを許さなかったが、やっと二名だけ犠牲者の死体の処理をするという立場で、はいることを許された。そこで、青柳軍曹、篠田上等兵は官邸内にはいり、殉職警官の死体の始末をはじめ、重傷ながらまだ息のある土井〔清松〕巡査を牛込の第一陸軍病院におくったりした。しかし、行動を制限されてどうにもならず、軟禁されたような形で、むしろ脱出の機会をねらうような立場であった。それでも二人は手分けして、いろいろと官邸内の状況を偵察した。そして青柳は部隊の目をぬすんで、ひそかに麹町憲兵分隊の特高班長小坂慶助曹長に電話で報告した。このなかに、中外商業の和田という名前がでてきたので憲兵隊では、この和田なる人物を逮捕して取調べた事実もあるらしい。私〔迫水久常〕が官邸正面玄関でみかけた和田日出吉さんなのである。【以下、次回】

 土井清松巡査は、重症のまま第一陸軍病院に送られたとあるが、助からなかった。インターネット情報によれば、その命日は、一九三六年(昭和一一)二月二十六日である。

*このブログの人気記事 2020・2・10(渡辺錠太郎の1位は久しぶり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする