◎栗原中尉は白ダスキ姿で民衆に対し演説をブッた
県史編さん室編『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県史刊行協力会、一九八一)から、金子良雄さんの「総理の写真」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
襲撃終了後全員車廻し付近に集合して四斗樽(清酒国冠、地下室に保管してあった)を抜いて乾杯した。
次いで私は別動隊となり、栗原〔安秀〕中尉等と共にトラックで朝日新聞社の襲撃に出発した。間もなく数寄屋橋を渡った所で我々MG〔機関銃〕班が下車、将校と小銃班が現地に向った。我々は橋のたもとにMGをすえて一般人の渡橋を遮断した。警戒中数名の民間人がきて「演習ですか」と聞いたので「これを見れば判るだろう」といって実弾を見せたが、彼等はそれでもまだ演習だと思っていたようである。
新聞社の襲撃は一時間足らずで終了した。我々は再びトラックに乗り各報道機関を巡回した後官邸に引揚げた。
その日〔二月二六日〕は寒い一日だった。歩哨以外は適宜暖をとったが、正門脇の詰所では戸を閉めて木炭を一俵一度に焚いたため忽ち一酸化炭素の中毒をおこし気が狂って発砲する騒ぎまでおこった。
翌日〔二月二七日〕霊柩車がきて遺体を運び出したので、近くにいた我々は整列して見送った。将校たちが忙しく出入し状況が刻々変ってゆく様子がみえる。栗原中尉は他所に行ったまま長時間戻ってこないので、下士官兵は警備体制のままでノンビリしていた。そうなると屋内見物や調度品に目が注がれ、いつしか記念品の蒐集が始まった。各種の目ぼしいも のが兵隊のポケットに入ったようで、中にはシャンデリアの飾りをダイヤと思込み途中から切って失敬した奴もいた。
私はこのチャンスを逃さず総理の部屋に入り室内にある文書を片端から読みふけった。一体どんな政治が行なわれているのか、それが私の興味をそそったからだ。そのうち床次竹二郎〈トコナミ・タケジロウ〉、荒木貞夫からの建白書が出てきた。これらの内容をみると既に二・二六事件の前ぶれが汲みとられ、発生を予測していた惑がもたれた。私はここで手文庫の中からパイロット万年筆を取り出しボケットに収めた。
その夜私が非常門の歩哨に立ったとき、荒木大将がきた。私は早速「誰カッ!」と誰可〈スイカ〉した。すると相手は、「お前は何年兵か」と反問したので「初年兵であります」というと「そうか立派なものだ」といって帰って行った。
当時歩哨線を通過できるものは合言葉「尊皇―討奸」及び体のどこかに三銭切手を貼布してある者とされていたのである。
夜何時頃だったか、民間人が大八車に握り飯を山のように積んで持ってきたことがあった。
「兵隊さん、これは私共の気持です。ゼヒたべて下さい」
その人は泣きながらそういって握り飯を置いていった。民衆が我々に味方し援助してくれることは実に有がたいことだ。我々の蹶起は民衆も認めているのである。栗原中尉は坂を下った交叉点付近に出向いて白ダスキ姿で民衆に対し演説をブッた。民衆がそれにこたえて盛んに拍手と檄を送っている。民衆にとって我々の蹶起が当然のことのように受け止めているようだった。【以下、略】
金子良雄さんの文章は、このあとも続くが、以下は割愛する。
二・二六事件については、さらに諸資料を紹介してゆくつもりだが、明日は、いったん話題を変える。
祖父が優秀な人やった、
言うてたらしいです。