◎次の間には弔意を表して屍歩哨が立っていた
角田忠七郎著『憲兵秘録』(鱒書房、一九五六)から、「岡田首相の救出」の章を紹介している。本日は、その四回目。
小坂〔慶助〕は篠田〔惣寿〕上等兵から聞いた岡田〔啓介〕首相が隠れているという女中部屋に急いだ。辺りの様子をうかがいながらソッと部屋に入ってみると、二人の女中が押入れの前に体を押しつけるようにして俯伏【うつぶ】せになっていたが 不意の侵入者に顔をあげ、軍服姿の小坂を認めると、一瞬サッと顔色を変え、慄【ふる】え出した。
「私は憲兵だ! 心配することはない」
小さいが力の籠った声で小坂がいった。女中達を押し退けるようにして押入の襖【ふすま】を開くと、果して下段に羽織、袴の岡田首相が、こちらを向いて端然と坐っていた。
「閣下! 憲兵であります。救出に参りました。もうしばらく御辛抱して下さい」
と、小坂は腰をかがめ声を殺していった。岡田首相が軽くうなずいた。やつれた顔面に、一瞬喜びの色が湧いたように思われた。
小坂が廊下に出たとたん、叛乱部隊の歩兵軍曹以下三名の巡察とパッタリ出会った。驚く一瞬先方から、
「異状ありませんか?」
と聞かれた。
「異状ありません」
と小坂が何気なく答えた。軍曹達はそのまま引返した。小坂はホッと安堵の胸をなで下しながらも、「異状ありませんか?」の一言が気になった。首相の生存を知っての言葉か? それとも若い女中に対するものか? 不安は募るばかりであった。
首相居室の次の間には、故首相の遺骸に対し、弔意を表して屍歩哨【しほしょう】が立っていた。午前十一時というのに 雨戸も開けず、薄暗い十五畳の座敷には鬼気迫る感があった遺体は、座敷の中央に枕を東にして寝かされてあった。小坂は敬虔な気持で顔の白布を取り除けた。松尾〔伝蔵〕大佐は苦痛の色もなく、首相の身替りとなった誇りに満ちたような安らかな死相であった。小坂は合掌した。ふと気が付くと偵察を終った青柳〔利之〕と小倉〔倉一〕が何時の間にか後に立って、遺骸に脱帽礼拝していた。小坂は両名を促して裏玄関の応接間に入った。如何なる手段で官邸の重囲を脱して首相を救出するか、三人の頭はこのことで一杯であった。
しかし、いくら考えても名案は浮ばない。三人とも心せかれるばかりで、頭の中は火のようだった。【以下、次回】
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