礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

剃髪は刑余者やアウトカース卜を模している

2020-02-28 00:56:01 | コラムと名言

◎剃髪は刑余者やアウトカース卜を模している

 拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書、二〇一四年八月)に対する塩崎雪生氏の書評を紹介している。本日は、その二回目。

 以前もお伝えしましたが、宗教史的に見ても浄土教は仏教と呼べるような性質のもので はありません。なかでも日本の浄土真宗は、本来は来世教であるべき仏教とは異なり、親鸞自身が如来の制戒を守れないと宣言し、一切の戒律を放擲して肉食妻帯許容の(つまり現世本位の)新宗教を唱えたわけですから、そういった意味ではあるいは現世の幸福を希求して勤労奨励の姿勢が生み出されることも可能だったのかもしれません。
 そもそも仏教で言うところの「精進」なる語は、日常レベルでの諸種の絶えざる努力をさしているのではありません。仏教は終極的には生死輪廻からの解脱(ふたたび転生することなき寂滅)を追い求める教説ですから、この解脱をめざしての「精進」、解脱実現のための「精進」であるわけで、生活改善や生産性向上を目的としての努力をなんら意味しません。なによりも仏陀の教説は世俗的労働を断然忌避しております。仏教の根本教義にのっとれば、衣食住からして常人の通常有するものをまずは捨て去らなければなりません。まとう衣服は糞掃衣(ふんぞうえ)・冢間衣(ちょうけんえ)――糞便を拭って廃棄されたボロ布を綴りあわせて衣としたり、死人の着ている衣服を墓をあばき剥ぎ取って身に着けたり――つまり廃棄物(ゴミ)なのであり、食物は乞食して得る世人の残飯であり、食事時間は午前中に限られ、しかも肉食魚食は無論避けられます。そして一所不住、ホームレスの漂泊状態で日々すごし、長期間定住することを甚だしく厭悪します。剃髪するのも社会外存在としての刑余者やアウトカース卜を模しているとお考えください。細大漏らさず家族・財産・社会的地位に対する執着を断乎断絶します。つまり、その為すことすべては通常一般の日常生活の全面的破却なのです。常人がめざすであろう生活向上が罪悪視され、まったく逆方向に努力が重ねられます。世俗的には美徳とされる事柄すべてが悪徳とされて忌避の対象となります。つまり負の業をたくわえることによって二度とふたたびこの世に生まれてくることがないよう(後生を受けざるよう)寂滅の因を得ようとするのです。
 浄土真宗は、「欣求浄土」とともに「厭離穢土」一一つまりこの世の移ろいゆく無常のあ りさまをあたかもきたない廃棄物が腐敗してゆくのと同様に嫌悪する――をスローガンと しますが、どの程度の切実さをもって叫ばれていたのか、あまり判然としません。「穢土」 (けがらわしき現世)を厭い、絶えざる「勤労」を通じて「浄土」(現世の美しき楽土)とやらを実現するのだともしも真宗勤農者が思っていたのだとしたら、それは本来の浄土教からもかけ離れたみごとな曲解です。しかしながら、あらゆる思想潮流というものは、その思想内容の程度を問わず、創唱の意図どおりに継承されつづけることはきわめてまれであり、原理主義的回帰の努力が専一に為されないかぎりその変容(崩潰というべきか)はおよそ とどまるところを知らないでしょう。
 仏教は元来出家本位の教説です。そのため仏陀在世当時から、出家しようともしないで 日常生活をそのまま営みながら仏陀につきしたがおうとする在家信者という者たちに対し ていかに法を説くべきかについては、当然のことながらきわめて煩わしい問題として捉え られていたはずです。出家が前提であることを口を極めてくりかえしくりかえし主張して いるにもかかわらず、世俗的生活をつづけながら仏陀にとり縋ろうとするわけですから、この在家信者という存在ははっきり言って仏陀がめざすものとはかなり異なった目的意識 をいだいていたのです。仏陀がめざす寂滅――輪廻のサイクルから離脱して、死後ふたた び六道にうまれなくなること――を追い求めているのではなく、ただ単に生活上の困りご とからの解放を望んでいたにすぎません。貧困・病気・家庭内の不和・長上者からの収奪・ 災害・飢饉・戦乱・暴政……。しかしながら、仏陀が懸命に逃れようとしていたのは、そのような個別の苦患ではなくして、それらの苦患が生じてやまないこの現実世界そのものであったわけです。出家修行者と在家信者とのあいだには決して埋めることのできない甚だしい現実認識の相違があります。在家信者は仏陀の説く一切皆苦・諸行無常・諸法無我といった世界認識を決して真正面から受けとめようとはしません。在家信者たちにとっては、目の前に立ちふさがっている不幸が消え去り、安楽な生活がつづけられさえすればそれでよいのです。端的に言えば解脱しなくとも、涅槃に入らなくてもよいのです。厳しい戒律遵守や日常生活放擲など土台無理だと最初から決めてかかっており、仏陀の所説が最終的には理解されることなく拒絶されています。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・2・27(なぜか2位にミソラ事件)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『日本人はいつから働きすぎ... | トップ | 仏陀の「生天説」は方便なが... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事