礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本間にある総理の写真を持ってきてくれ(栗原安秀中尉)

2020-02-25 00:30:02 | コラムと名言

◎日本間にある総理の写真を持ってきてくれ(栗原安秀中尉)

 県史編さん室編『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県史刊行協力会、一九八一)から、金子良雄さんの「総理の写真」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 日曜日は休日で用のない者には外出が許可される。そんな時栗原〔安秀〕中尉は外出者を集めて次のような訓示をした。
「お前たちは天皇の軍隊であり軍人である。だから外出中警官に文句をいわれたらブッとばせ、連絡あり次第俺が馬に乗って応援に行く」
 以上のように栗原中尉の気質や思想はいつしか私達初年兵にしみこみ、信頼を深めていった。従って事件への参加は全員抵抗なく一致結束できたのだと思う。しかも日頃の訓話によって世なおしの必要を教えこまれていたので蹶起は独り将校だけでなく、下士官兵も気脈をあわせて立ち上ったとしか考えられない。中尉は我々の入隊時勅論など形式的なものは覚えなくてもよい。それよりも何日何時でも天皇の前で潔よく死ぬ覚悟を堅持してもらいたいといったがこれこそ真に憂国の至情というものであろう。
 栗原中尉という人はそういう無駄のない赤誠にあふれた青年将校であった。
 なお栗原中尉との個人的ふれあいは、私が川越出身だということでいろいろと町の様子を聞かれ親しくなっていた。初めのうちは知人でもいるのかと思っていたが、実は昭和八年〔一九三三〕十一月に起きた救国埼玉青年挺身隊事件で本人も連座し、政友会総裁鈴木喜三郎の暗殺を企図した経緯が秘められていたのである。
 さて二月二十五日の晩、点呼後我々は二装用軍服を着て待機するよう命令された。班長たちはピストルに実弾を込めて張切っているし何かが始まる気配がヒシヒシと迫っているようだった。私はフト、ベットの上で友達の東郷ヒ口シ、松津耕平の二人に手紙を書いた。
  <大事件発生、株暴落>
 この手紙は本人に届いたが、その後憲兵によって没収されたそうである。
 二十六日〇三・三〇非常呼集がかかった。私はいよいよ始まったなと直感した。
 その後大急ぎで仕度をして舎前に集合した。ここで実包を一人六〇発ずつ受領したあと、栗原中尉から訓示を受けたが、興奮していたためか何を話されたか覚えていない。そして出動先も判らなかった。その夜雪は止んでいたが前日までの残雪で外は明るかった。
 四時過ぎ出発、営門を出ると隊列は左折し赤坂方面に向った。途中私は鉄道大臣官邸前のポストに手飫を投凾した。やがて三十分もたった頃首相官邸に通ずる坂道を上って行った。いつも演習できた道だ。すると官邸の非常門と思われるあたりからビービーという非常ベルの音が聴えてきた。何のための合図なのか不明である。隊列は官邸を左に見ながら十字路を通過するとみるや、先頭の栗原中尉が突然戻ってきて通用門に近づき警戒していた警官を無言のうちに制圧、それを合図に各分隊は持場に散った。何事ぞ、襲撃目標は〔岡田啓介〕総理大臣だったのである。私は機関銃の第六分隊で裏門にまわりその付近の警戒にあたったが、その時襲撃隊は早くも屋内に入った模様で銃声が聞えてきた。
 しばらく銃声が響き緊張が続いたが間もなく静かになった。私は中の様子を見ようと加藤二等兵と共に警戒しながら家屋に近ずくと、栗原中尉が出てきて「日本間にある総理の写真を持ってきてくれ」と命令された。すでに射殺されている総理と照合するためであった。そこで私は写真をはずし栗原中尉の所に持って行くと、中尉は両方の顔を交互に見ていたが、その結果間違いないという確認を得たので遺体を日本間に移し安置した。【以下、次回】

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