◎「急病人だ、車を入れろ!」(小坂慶助憲兵曹長)
角田忠七郎著『憲兵秘録』(鱒書房、一九五六)から、「岡田首相の救出」の章を紹介している。本日は、その六回目(最期)。
しばらくして〔福田耕〕秘書官が突然、
「実は今朝【けさ】早く陸軍大臣の小松〔光彦〕秘書官から電話があって、何か困ったことがあれば、こちらから栗原〔安秀〕中尉に連絡してやるといって来ましたので、せめて総理の近親者だけでも官邸に入れて、遺骸に焼香させて戴きたいと依頼しておきましたが、これをなんとか利用できませんか?」
と云い出したのを聞くと、小坂〔慶助〕は「それだ!」と思わず声に出して小躍【こおど】りした。
「福田さん! 首相をその弔問者達に紛【まぎ】らわせて脱出させる。これが一番安全です。これでやりましょう」
「福田さん、弔問者をすぐ集めることができますか?」
「すぐ集まります。淀橋〔淀橋区角筈〕の総理の私邸には、昨日から全員が集まって、遺骸の引取りを待っています」
「栗原中尉は弔問者の官邸に入ることを承知していますか?」
「小松秘書官から栗原中尉へ連絡があったとすれば承知していると思います」
「これは一番大切なことですから、一応栗原中尉に直接確める必要があります。青柳! 君は表玄関に行って、栗原中尉に福田秘書官から首相の近親者達が遺骸に焼香したいからとの申出があったが差支えないかどうか聞いて来てくれ」
青柳〔利之〕は、瞳を輝かしながら出て行ったが、すぐ帰って来た。
「栗原中尉は承認しました。弔間者は憲兵に委【まか】せる。人員は十名内外ということです」
憂色は忽ち喜色に変った。
「では福田さん。弔問者に対してはどんなことがあっても、騒いだり驚いたりしてはいけない。官邸内の行動は、一切憲兵の言う通りに行動して貰いたいと、あなたから十分に注意しておいて下さい。それから自動車ですが、もし病人や怪我人【けがにん】でもできるといけませんからということにして、裏門脇に待機するようによくいいつけておいて下さい」
「承知しました」
午後零時二十分打ち合せは終った。
小坂は早速、女中部屋に行き、二人の女中に、
「閣下に着替をして戴くのだが、洋服類は何処にあるか?」ときいた。
「ハイ、寝室の隣の十二畳間の押入にございます」
「私がここへ運んで来るから、御手伝をして閣下に早く着替えをして戴くようにして下さい」
と、小坂は押入の中にいる首相にも聞えるようにいって女中部屋を出た。
歩哨の眼をかすめて何回か往復し、ようやく必要な衣類を運び終えた。
やがて〔福田〕秘書官に引率されて、弔問者が裏門の歩哨線まで来た。
「弔問者十二名通ります」
と小坂がいった。青柳が玄関応接間に出て、秘書官から弔問者を受継ぎ、
「弔問の方は、これから私の指示に従って行動して下さい」と、低いが力を込めていった。機を逸せず小坂は女中部屋へ駈けつけ、
「閣下! 早く、早く――」
と、二人の女中を押し退け、押入の首相の手を取ってグイと引出した。首相はよろめくように小坂に寄りかかった。小坂は首相の右脇下から、左肩を入れて抱え、廊下に出て裏玄関に急ぐ途中、息をはずませて来る福田秘書官に出会った。秘書官が飛びつくように首相の左脇に右肩を入れ、二人で重病人を抱えるようにして玄関広間に出た。
「小倉〔倉一〕伍長、急病人だ。車を入れろ!」
小坂が大声で怒鳴った。車が来た。二人で首相の身体【からだ】を押し込むように車の中に入れ、秘書官がすぐ乗込んだ。すると自動車は音もなく衛兵監視の裏門を、まっしぐらに突破してその姿を消した。時に二月二十七日午後一時二十分であった。
かくして、岡田首相救出の大業はついに成功した。
ここまでが、「岡田首相の救出」の章である。『憲兵秘録』は、ここまでとし、明日は、別の文献を紹介する予定である。