◎閣下、憲兵です、救出にまいりました(小坂慶助)
迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)から、「生きられるだけは生きよう」の章を紹介している。本日は、その後半。なお、「私」というのは、岡田啓介首相の一人称である。
私〔岡田〕は仕方がないので、ずっと押入のなかにいた。小用は空びんをもってこさせて用を足した。午後一時ごろに福田〔耕〕がきて対面した。あとできくと松尾の死体に新しく花を供えるという名目ではいってきたのだそうだ。「なんとかいたしますから、しばらくここにかくれていてください。外部の状況もできるだけ探知します。迫水〔久常〕は宮内省にいってます」など手短かに話した。私はすべてを彼らにまかせてじっとしていようと思った。そのうちにまただれかが部屋にはいってきて女中と問答しているようだったが、ガラリと唐紙があき兵隊だったが自分の顔をみるとまたぴしゃりと唐紙をしめてしまった。またみつかったか、いよいよやってくるかなと思っていたが、あたりはしんとして、人の動く様子もない。この兵隊があとできくと、篠田惣寿という憲兵上等兵であった。三時ごろにはふたたび福田が弁当をもってやってきた。高橋〔是清〕さんや斎藤〔實〕さんも殺されたとしって、私はますます今後の責任を感じ、死ぬのはそのあとであると決めた。福田が帰ってから、しばらくしてまた兵隊が女中部屋にやってきた。そして女中に向って「この官邸に女はお前たち二人だけだ、もうすぐ日も暮れるし、そろそろ帰りなさい」といっている。女中たちは「総理のご遺骸がある間は、ここを離れるなと福田秘書官からいいつけられておりますから帰るわけにはいきません」とがんばる。「いや、その気持ちはもうじゅうぶんわかった。自動車で送ってあげるから帰りなさい」というような押問答があり、怒った兵隊が、サクの手をとってひきおこそうとしたらしく、そのときサクの体がふれたのか、唐紙が開いてしまった。私は上等兵の姿をみた。自分はもうこれまでと立ちあがろうとしたとき、その上等兵はサッと唐紙をしめ、「わかった、わかった、総理の遺骸がある間はここにいなさい」といいのこして女中部屋からでていった。外で「憲兵さん、憲兵さん、ここに女中たちがいますから弁当の心配をしてやってください」と呼ぶ声がきこえた。自分は兵隊の大部分は味方であるとおもい、大いに意を強くしたのである。そのあともしばしば巡視兵がやってくる。将校は部屋のなかへははいらないが、兵隊がはいってきて、「異常はないか」ときく。女中が 「ありません」と答えると唐紙の両端を少しあけ、中にあるものを一つ二つ放りだして、唐紙をしめ外の将校に「異常ありません」と報告する。なかに人間がいることはどう考えて も判るはずである。その上一度ならず兵隊の手が身体にさわったこともある。私はいっそう確信をふかくした。ずっとあとになって、友人の土肥竹次郎君からきいた話だが土肥君の息子は日支事変のとき、中尉で戦地にいたが、たまたま、二・二六事件の話がでたとき、部下の兵隊の一人が、「私は二・二六事件に参加したが、総理が生きていることは知っていたが、いまさら殺すべきではないと思ったので、上官には報告しなかった」といっていたそうである。夜になって、まったく巡察兵もこなくなった。私はうとうとしたが、ときどきいびきをかいたらしい。そのときは、女中たちは、自分たちのつくりいびきで必死にごまかしたという話だ。
翌日〔二七日〕の朝、襖〈フスマ〉がそっとひらき、憲兵が顔をのぞかせた。「閣下、憲兵です、救出にまいりました、もうしばらくご辛棒ください」といってくれた。これが憲兵曹長小坂慶助君であった。
岡田啓介大将の話は一応ここでおわり、話を福田秘書官と憲兵のことに移すことにする。
ここまでが、「生きられるだけは生きよう」の章である。このあと、「一挺の拳銃」という章になり、そこから、一人称が迫水久常に戻る。引き続き、紹介を続ける。