◎「女中部屋にいる老人を一体どうするつもりですか?」
角田忠七郎著『憲兵秘録』(鱒書房、一九五六)から、「岡田首相の救出」の章を紹介している。本日は、その五回目。
どのくらい時間が経ったろう。随分長い時間に思われた。ふと、小坂〔慶助〕の頭に、これは官邸の誰かを一人加えることだという考えが浮んだ。その時突然遠くの部屋の電話のべルが鳴り響いた。その音で小坂は福田〔耕〕首相秘書官を考えついた。それは福田秘書官が前日の朝執拗に麹町分隊に電話をかけてきて憲兵の派遣を要求したからである。
「そうだ! 福田秘書官を仲間に入れることだ」
と決めると早速、小坂は福田秘書官を官邸のすぐ裏にあったその官舎を訪ねた。しかし、秘書官が果たして首相の生存を知っているのかどうか、疑問であったので、小坂はどういい出したものか迷った。秘書官も何かいいたいような口元である。ようやく小坂が口を切った。
「実は……重大な御相談があって、お伺いしました」
「はあー、一体どんなことでしょう?」
小坂は秘書官の方が首相の救出を求めるのではないかと思っていたのに、全く予期しない態度であった。知ってトボケているのか? あるいはまた全く知らないのか? 小坂は思いきって単刀直入に切り込んだ。
「福田さん、官邸の女中部屋にいる老人を一体どうするつもりですか?」
秘書官は、ハっとしながらも
「女中部屋の老人?」と聞き返したが、あとの言葉は出なかった。ただ憲兵がどうやら敵ではないらしいということを幾分察知したようだ。しかし、その顔はまだ緊張している。小坂は重ねて云った。
「女中部屋の押入れの中にいる岡田〔啓介〕首相を、どうするつもりですか? 私は首相を救出しに決死の覚悟でやって来たのです」
秘書官の硬直した表情がにわかに輝き出すと、躍【おど】り上るようにして立ち上り、両手を拡げ、いきなり小坂に抱きついた。その両眼からは涙が止めどなく流れている。
「有り難う! 有り難う!」
秘書官は胸が迫って声も出ない。小坂の眼から涙が溢れた。しばらく両人は固く手を握り合ったまま無言でいたが、ようやく落着いた秘書官は、前日来の苦悩を語り出した。
「実は、昨日の午前中に総理の無事であることを知りました。何時【いつ】発見されるかわからない敵地に、じっと息を殺して潜んでいる総理のことを思うと、居ても立ってもいられませんでした。迫水〔久常〕(秘書官)さんと額【ひたい】を集めていろいろ相談はしましたが、この状萌ではどうすることもできません。昨晩は一睡もしないで考え続けました」
「福田さん。私もそうです。昨日午後首相の生存を知って以来、その救出を決心して首相官邸に潜入する機会を窺っていたのですが、今朝になってようやく入ることができました」
二人はまた手をとり合って男泣きに泣いた。
「福田さん! 官邸に私の最も信頼できる青柳〔利之〕軍曹と小倉〔倉一〕伍長の二人が待っています。すぐ行って救出の実行計画を立てましょう」
と小坂が促した。やがて、福田秘書官と連れ立った小坂は、裏門の衛兵所前まで来ると、
「首相秘書官を、総理の遺骸のある部屋まで案内します」!
と衛兵司令に断り、玄関正面の応接間に入った。福田秘書官を加えた小坂等四人は額を集めて、密議をこらした。【以下、次回】
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