◎近衛文麿という政治家の資質について
昨日のコラムで、近衛文麿というのは、胆力、信念、あるいは、情況を読み取るセンスに欠けた三流政治家、ないし三流以下の政治家ではなかったか、と書いた。
特に、一九四四年(昭和一九)七月一八日から同月二四日にかけての「近衛日記」を読んで、その感を強くした。気づいた点を箇条で述べる。
〇七月一八日の重臣会議における議論の最後で、枢密院議長の原嘉道は、「これじゃ東條とどれだけ違うのだ」という感想を述べた。「これ」とは、新首相の候補として小磯国昭が浮上したことを指している。原は、近衛ほか重臣会議の主流が、「従来主戦論を唱え来れる強硬分子」によって組織される「中間的内閣」(中間内閣)を目論でいることを、まったく知らなかった。だからこそ、そのように述べたのであって、その感覚はまともである。
〇近衛は、「昭和一九年七月二日付近衛文書」(仮称)で、この中間内閣構想を展開している。なお、この文書の原案を執筆したのは、たぶん、酒井鎬次中将であろう。
〇ところが、翌一九日になって近衛は、「ふと」、小磯・米内の「連立内閣」を思いつく。ということは、ここで近衛が中間内閣構想を放棄してしまったことを意味する。
〇近衛は、連立内閣構想について平沼騏一郎から賛同を得た上で、そうした方向で、工作を開始する。この工作に対し、内大臣の木戸幸一は、「今一度重臣会談を開こうか」と提案した。ことの重大性を考えれば、これは、まともな感覚である。ところが近衛は、「松平康昌内大臣秘書官長に重臣を歴訪させることで、重臣会談に替えられる」と木戸を説得し、結局、木戸はこれを受け入れた。しかしここはやはり、再度、重臣会議を開いておくべきだったように思う。
〇七月二〇日、小磯国昭と米内光政に対し、大命降下があり(首相は小磯)、その後、小磯から、重臣に対して挨拶があった。その挨拶が終わったあと、木戸内大臣は、小磯に対し、「米内君は重臣会議の模様は御存じだが、小磯大将は重臣と十分御懇談を願いたい」と述べ、さらに、近衛に向かって、「此の間の話は重要と思うから、ここで話されたら如何」と提案した。原枢密院議長も、これに賛成し、「極めて重要だから、小磯大将の耳に入れて置かれたらよかろう」と促した。木戸も原も、「連立内閣」構想が浮上した経緯について、近衛から小磯に説明があるべきだと述べたのである。
〇ところが、近衛は、この二人の言葉の意味が理解できない。小磯に対し、「此の際は一刻も早く組閣を急がれたがよかろう」と、見当はずれのことを言っている。小磯に対しては、組閣作業に入る前に、「連立内閣」構想が浮上した経緯を知らせておく必要があった。しかし近衛は、このことが理解できなかった。
〇その席で近衛は、「いろいろ心配していることもあるが、それをいうと一時間もかかるばかりでなく、他の重臣はすでに聞いておらるることであるから、今はやめておく。組閣後一、二時間を割愛してくれられるなら、その節お目にかかってお話したい」と述べている。近衛は、「いろいろ心配していること」についての説明が求められているのだと、勝手に勘違いした。この「いろいろ心配していること」とは、思想問題、すなわち、「赤」問題のことである。
〇七月二四日、近衛は、永田町の首相官邸で新首相と会見し、その席で、「前日約束せる思想問題に就て縷述」した。この「前日約束せる思想問題」という言葉によって、七月二〇日に、近衛の勘違いは明らかであろう。近衛は、小磯新首相が自分の話を聞き、「これを筆記した」したのを見て満足したもようだが、小磯は、近衛の話を聞き流したのではなかろうか。この近衛文麿という人は、やはり、どこまでも「勘違い」から逃れられない政治家なのだろうという印象を抱いたものである。
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