◎吉野作造の「朝日平吾論」を読む
橋川文三によれば、吉野作造は、その著書『講学余談』の中に、「朝日平吾論」を収めているという。さっそく、これを読んでみた。
吉野作造『講学余談』(吉野作造著作集、「主張と閑談」第六、文化生活研究会、一九二七年五月)は、国立国会図書館のデジタルライブラリーで閲覧できる。目次を見ると、〝宮島資夫君の「金」を読む―朝日平吾論〟がある。これが、橋川文三のいう吉野作造の「朝日平吾論」である。
すなわち、吉野作造の「朝日平吾論」は、宮島資夫(みやじま・すけお)の『金(かね)』(萬生閣、一九二六年四月)という小説に対する書評という形をとりながら、朝日平吾と安田善次郎について論じた文章である。その初出は、示されていない。
かなり長いので、何回かに分けて紹介する。なお、吉野作造の『講学余談』は、国会図書館のデジタルライブラリーで閲覧可能だが、印面の状態が悪いのか、撮影技術に問題があったのか、きわめて判読しにくい。時間をかけて、慎重に書き写したつもりだが、あるいは誤読している箇所があるかもしれない。
宮島資夫君の「金」を読む=朝日平吾論
未見の友宮島資夫君より其著「金〈カネ〉」の恵贈を受けたのは〔一九二六年〕五月初旬のことだ。病後未だ充分に体力を恢復せずその癖可なり忙しい生活を送つて居る私のこととて、之を読み終るに二週間ばかり掛つた。大変面白かつたことをお礼代りに申しておく。【中略――この部分に、小説『金』についての紹介がある】
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先年朝日平吾なる一青年が安田翁を殺したといふ報道を新聞で読んだとき、私には何となく之が普通の殺人ではないやうに思はれた。寄付を求めて応ぜず怒りに任せて殺したといふ風に報じたのもあつたが、それにしては朝日の態度が立派過ぎる。事柄の善悪は別として、之には何か深い社会的乃至道徳的の意義がなくてはならぬ。殊に安田翁が如何にしてかの暴富を作つたかを思ふとき、社会の一角に義憤を起すものあるも怪むに足らぬと平素考へていた私には、どうしても朝日をば時代の産んだ一畸形児としか考へられなかつた。斯くて私は朝日といふ人物に就てひそかに一個の勝手な解釈を有つて居たのであつた。
其後朝日の遺書なるものが秘密の間に発表された。私も之を読んで私の解釈の甚しく見当を外れて居なかつたことに満足した。やがて又一部の人の間に朝日を激賞するの声があがるのを聞いた。併し其の言ふ所は、朝日の古武士的な犠牲的の精神を揚ぐるに偏し、その思想の社会的由来に関しては殆んど全く目を掩ふて居るかに思はれた。之では彼に封建時代の衣物〈キモノ〉を着せて舞台に立たしめただけに止まり、断じて現代の活社会に彼を活かす所以にはならない。この点に頗る〈スコブル〉遺憾の情を懐いて居つたのに、今宮島〔資夫〕君の新解釈に接し、始めて私は快心の共鳴を感ずることを得た。是れ同君の好意に酬ゆる以外の意味に於て、別に又こゝに蛇足の紹介を試みるに至つた所以でもある。
改めて云ふ。「金」の主人公杉中が朝日平吾をモデルに取つたものであることは、安達殺害の光景の叙述から見ても明了だ。更に篇中にもちよいちよい出る安達のやり口を見ると、これは永く世上の噂に上つた故安田翁のやり口そつくりではないか。田舎銀行の頭取であつた杉中の父親も安達にしてやられて悶死したといふ。之も杉中が安達を殺すに至つた一原因になつて居るが、さてどう云ふ風にして田舎銀行を乗つ取るのかといへば、先づ放漫な貸付に多額の資金を固定し四苦八苦に悩みあぐんで居る田舎銀行に向つて救済と出掛ける。即依頼に応じて若干の融通をするのである。期限が来る。ぐんぐん解決を促す。此際彼が一刻の猶予も与へず冷酷を極めて一点の涙を示さぬは、普ねく〈アマネク〉人の知る所だ。而して困憊〈コンパイ〉の極に押し詰めた揚句が、これを二束三文に買ひ潰すことになる。斯くしてその全権を握ると、今度は豊富なる資金にまかせて緩つくり〈ユックリ〉資金の回収につとめる。力ある者の手に帰すれば、二束三文の証書もみな活きあがる。元の株主が切歯扼腕してももう追つ付かない。之が安田翁のやり口だと誰しもが云ふのである。此手で全国各地の小銀行は続々彼に買ひ潰され、かくして所謂安田の銀行網が全国到る処に張り詰められる。彼が居ながらにして金融界の大覇王と仰がるるに至つた秘訣はこゝにあるといふことだ。【以下、次回】
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