◎外国人の日本語入門はローマ字によるが便宜(菊澤季生)
松尾捨治郎著『国語論叢』(井田書店、一九四三)から、「第三 外国人に教へる基本文型」を紹介している。本日は、その六回目(最後)。文中の傍線、一字アキは原文のまま。
九 菊澤季生氏の提案について
「外国人の日本語学習の入門としては、ローマ字によるが、便宜であるが、其は会話日本語にだけ役だつて文字言語による日本文化は全然理解出来ない。たやすい漢字は勿論の事、歴史的仮名遣も知らしめなければならない。」といふお説には全幅の賛意を惜まない。強ひて私見を附け加へれば、歴史的仮名遣は用言語尾の者を主とし、他の者は第二にしてよいかと思ふ。
「国語の特色を発揮した文法体系を要する。其には体言用言の観念など主な者である」といふお説にも、大体同感である。但し枝葉の問題については、若干異見を申したい点もある。代名詞を名詞に包括せしめるといふのはよいとして、其の理由根拠を「代名詞なしでも文が書けるから」といふ所に置くべきではない。「用法が名詞と同様であるから」といひたい。又体言用言の外に副言といふ名目を立てゝ、副詞 接続詞 感動詞を一括しようとするのも、同時に之を副用素といふのも、共にいゝが、之を「文中に独立する者」といふのは如何〈イカガ〉であらう。副といふことと独立といふこととは、矛盾しないだらうか。
体用といふことは、無言抄などの流を汲んで、内容から区別することも出来る。さうすると 流れ 運動 などは用となる。又義門流に徹底的に語形から区別することも出来る。さうすると副詞や感動詞は勿論体であつて、は も か等も体となる。時としては此の双方の混同も昔から多く見られる。お説では副詞等は副用素として用ゐられるといふのであるから、体言 用言 よりは其の点辞の方に近くはあるまいか。同じ機能を果す者でありながら、not,nicht, は副詞であり、ずが助動詞であり、なは終助詞としても取扱はれて居る。亦やalsoが副詞乃至接続詞であり、も さへ が助詞であることなど参考の余地があらう。お説は昔の学者の混同とはちがふが、此の点一層明かにしたい者である。自分は義門流が最も徹底して居るやうに思ふ。
「従来の文法書が各品詞の説明にのみ詳しく、文の性質構造に就いての説明が無いのは欠陥であらう」といふのは、三十余年間文章論基準を主張して来た自分に取つては、うれしさ此の上もないお説である。近年各種の文法教科書が、多くは冒頭に、少量ではあるが、文章論らしい者を載せるやうになったのは、私見の認められたのではなく、西洋の言語学者などの説の影響のやうであるが、其でもとにかく結構である。語の断続といふことが膠著語〈コウチャクゴ〉たる我が国語の肝要事であり、我が文法発達の歴史にも沿つてゐるのだから。此が自分の信念であつたのに、今同じ主張者を得て、非常に心強い。
右に関連して「語法といふのはよろしくない、文法といふべきである」といふお説の御趣意は御尤であるが、近年お説とは逆行的に、文法といふ語から遠かつて〈トオザカッテ〉、語法といふ語を多く用ゐて居る自分として、一言したい。文法といふ語は、明治に入ってから発生したと申してもよい。詳しくいへば中期までは、文典といふのが絶対多数である。其以前は多く語学(物集〔高見〕博士は言語学)といつて、主に和歌を対象として居た。其では偏して居るといふので、散文の文語法をも説くやうになり、之を文法と称したのである。即ち文法の文は、元来Sentenceではなく歌に対する文乃至国語に対する文語文を指したのである。其故文語のみでなく、口語をも、通じて説く者をば、語法といつた方がよくはないでせうか。
「敬語法を相当程度説明する必要がある」といふ御意見には、勿論大賛成である。敬語法は外国人には六かしいからといふ理由で、いい加減にすることは、断じて不可である。或る程度明かに之を教へ込まないでは、日本語を教へたことにならない。日本文化の語の方面を知らせたことにならない。但し、此の敬語の分類や、其の用法の説明等について、種々の者が行はれて居るが、此はどうしても文句の成分に結び付けて説くがよい。即ち、
1 主語を尊敬する者
2 客語を尊敬する者
3 所有主を尊敬する者
4 文句の成分以外の対者(対称とは限らない)を尊敬する者
5 文句の成分たる自己(自称)を卑下する者
といふやうにするのである。此が我が敬語の特色に適合した大綱であることを多年主張し来つたが、文章論規準を唱へられる菊澤さんは、必ず之に賛成して下さることと信じます。
何卒妄言をお許し下さい。 (昭和一五・九・十一)
菊澤季生(きくざわ・すえお、一九〇〇~一九八五)は、国語学者。一九六一年から一九七二年まで、日本ローマ字学会会長を務める。
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