礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

北一輝が真崎内閣を待望したのはなぜか

2024-06-29 02:05:02 | コラムと名言

◎北一輝が真崎内閣を待望したのはなぜか

 木下半治『日本国家主義運動史 Ⅱ』第六章「二・二六事件を中心として」第二節「二・二六事件の経緯」のうち、「六 北・西田・真崎」の項の後半部分を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 文中の傍点は、下線で代用した。なお、同書Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。

 次いで北は、野中〔四郎〕にも電話で栗原〔安秀〕に対すると「同一の言葉」もって真崎推戴をすすめた。これに対して青年将校は「真崎を立てて一任すると云う事に漸く意見が纏ま」り、その日すなわち二十七日の午後、村中の口から電話で北にこう返事をさせている。――「先程軍事参議官は全部見えませんでしたが、西・真崎・阿部の三大将が見えましたので、吾々一同の一致した意見として、この際真崎大将の出馬を煩して真崎閣下に総べて一任したいと思います。どうぞ軍事参議官閣下も御意見の一致を以て真崎閣下に時局収拾を御一任せらるる様お願い致します。何うそ御決定の上は直ちに、陛下に奉上してその実現を期する様にお願い申します。と申した処、西〔義一〕大将・阿部〔信行〕大将は即時夫れ〈ソレ〉は結構な事だ、君等がそう話が判って自分等に一任して呉れるならば誠に結構な事である。早速帰って皆とも相談して返事を仕様と云う事でありました。そして少し不平の様な語気を以て、真崎閣下は兎に角、君等は兵を引く事が先だと言いました」(北、同上)。この時、真崎は渋い顔をしている。面と向かって真崎推戴をいわれたのでは、にやにやするわけにもいかなかったのであろう。
 真崎推戴に対する軍事参議官の返事は、北の期待にかかわらず、なかった。そして真崎内閣説はふっ飛んだのであったが、このように北が真崎内閣を待望したのはなぜか。――「私は……唯陸軍が上下一致して真崎を奏請する様な事になるであろう事を信じ、青年将校の身の上も夫〈ソレ〉に依って有利に庇護される事(傍点――引用者)を期待して居りました。従って色々の風評の如く、陸軍同志が相撃の様な不祥事も起らない事を信じて比較的心痛なく、午後迄只返事を待って居ました」「要するに、二十八日中は真崎内閣に軍事参議官も意見一致するものと信じ、海軍側の助言も亦有効に結果するものと信じ、随って一任すると云った以上は、出動部隊も兵を引いて、時局が危険状態より免ぬがるるものと許り確信致して時局を経過して居りました」(「聴取書」、第二回)。すなわち北は、真崎ならば青年将校の傀儡となり得るものと確信していたのである。――「……私が直接青年将校に電話をして、真崎に一任せよと云う事を勧告しましたのも、只時局の拡大を防止したいと云う意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で、真崎内閣ならば青年将校をムザムザと犠牲にする様な事もあるまい(傍点――引用者)と考えたからであります。此点は山口・亀川・西田等が真崎内閣説を考えたと云うのと、動機も目的も全然違って居ると存じます」(「聴取書」、第五回、最終回)。
 その西田は、――前述したように――真崎かつぎ出しについて、事件直前に大尉山口〔一太郎〕・亀川哲也等と打ち合わせたことについていう。――「……寄々〈ヨリヨリ〉話し合った結果、結局一日以上も惹起した車態を放任されてはいけない。若い人達の志を生かす様にせねばならぬ。又其為に苦い人達が皆尊敬して居り、且つ相当な判断力・実行力ありと思われる真崎大将・柳川中将の様な人達に依って、何とか収拾して頂ける様に骨を折ろうと云う様な事になったのであります。其結果、山口大尉が公私の関係(山口は本庄繁大将の婿〈ムコ〉である――引用者)を辿って〈タドッテ〉軍の上部に対して努力する。亀川哲也は、真崎大将と、山本英輔〔海軍大将〕とかの方面に努力する。私は小笠原閣下その他の方面に努力をする。と云う事に決めたのであります」と(西田、「聴取書」、第三回)。西田は、前述のように、真崎内閣説を北に報告したが、事件勃発後(二十七日)、青年将校が柳川説を持ち出したことに北が反対したので、栗原に電話し、栗原が「軍事参議官全部と会って希望(柳川内閣説その他――引用者)を出したが、どうも上の方の人人の話が良く分らない」といったのに対し、西田は「事態を速く収拾する為に真崎大将辺りに上下共に万事を一任する様に皆で相談されたら、何うか」といった。すると、栗原は「よく考えて見る」と返事した。次いで、西田は村中を呼び出して、「……前申した真崎大将辺り〈アタリ〉に一任して速く事態を収拾したら何うかと云う事を話しました」。すると、村中は「軍隊側の方の将校の意見は非常に強硬で、なかなか仲間で纏らない」といい、また「上の方との話は皆で相談します」と返事している。西田等の説得を受けた栗原等は、真崎内閣に一致し、翌二十八日、栗原が西田に電話で報告したところによれば、栗原は華族族会館に兵を率いていき、真崎内閣説を唱えたことを述べている。――「自分(栗原)が行ったら、華族の人達が二十人位居ったので、乱暴はしないと云う事を良く云って聞かし、自分達が今度の事件を起した趣旨を説明して聞かし、質問はないかと云ったら、或人が、内閣の首班は誰が良いのか、と聞いたので、吾々は大権の私議はしない、只この事態を真崎大将辺りに収拾して頂き度いと思って居る、と云う風に答えて置いた」。また、この時、栗原は、前述した三軍事参議官との会見の模様を述べて、次のようにいっている。――「軍事参議官の人達と会いました。夫れは全部ではなく、真崎大将・阿部大将・西大将だけが来てくれましたので、自分達としてはこの際事態の収拾を真崎大将に一任しますと申上げましたが、真崎大将は『俺は何共云えないが(傍点――引用者)、お前達は兎に角引揚げて呉れないか』と云う話であった」(西田、「聴取書」、第二回)。
 二・二六事件における北・西田・真崎の関係は右のとおりである。〈409~412ページ〉

「六 北・西田・真崎」の項は、ここまで。明日は、話題を変える。

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