礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

王仁三郎の前で天下の名士・軍人がお世辞を並べた

2024-06-23 04:46:23 | コラムと名言

◎王仁三郎の前で天下の名士・軍人がお世辞を並べた

 昨日は、木下半治『日本国家主義運動史』の戦前版(慶應書房、1939)から、「四 昭和神聖会の出現」の項の全文を紹介した。本日は、同書の戦後版(福村出版、1971)から、戦前版の「四 昭和神聖会の出現」の項に相当する部分を紹介したい。
 戦後版『日本国家主義運動史 Ⅱ』第五章「再建へのもがき」第二節「民間国家主義団体の萎縮と陸軍革新派の潜勢力」のうち、「五 昭和神聖会の出現と内田良平の失態」の項が、それに相当する部分である。なお、同書Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。
 
     五 昭和神聖会の出現と内田良平の失態
 軍部の隠然たる政治的圧力と、その反対に萎微ふるわない民間国家主義団体の分散状態。――この対照は「怪物」大本教出口王仁三郎の乗ずるところとなった。すなわち、出口は、その豊富な財力を利用して国家主義団体の統一をはかり、その統一のうえに、かねてかれの抱いていた政治的野望を達成しようと企てたのであった。
 この出口の陰謀は、一九三四年(昭和九年)七月二十二日に東京九段、軍人会館における昭和神聖会の結成となって表面化した。後に、不敬事件ないし治安維持法違反のゆえをもって弾圧され、終戦後ようやく釈放された出口の本体からみれば、右翼連中がこれに喰いつくわけはないのであったが、当時の国家主義指導者はいっこうにそこに気がつかず、ただただ大本教の財力に眩惑されて出口の策謀に乗っていった。その時代の国家主義者が表面上唱えていたところからみれば、これはまことに奇怪なわらうべき現象であった。公爵一条実孝が総裁、出口王仁三郎が統管、生産党の内田良平が副統管となり、「不敬罪」の大本教と「天皇護持」の生産党とが結ぴついたのである。そのうえ、在郷軍人団体の明倫会および皇道会・青年日本同盟・神武会等も、それぞれ出口に連絡をもち、軍人会館の発会式のごときは、天下の名士・軍人が「不敬漢」出口王仁三郎の前にお世辞の百万遍も並べたというから、後のわらいものになった。
 このように、天下の国家主義名士や、高級軍人に取りまかれて発会式をあげた昭和神聖会は、その日、次のような「声明」および「宣言」を発表したのであった。――
        声  明【略】
        宣  言【略】
 このようにして結成された昭和神聖会は、その青年部隊である昭和青年会を基礎として大阪・京都、その他に支部を設置するとともに、他方、前述の諸国家主義団体と手を握って、海軍問題有志懇談会の結成に努力し、また、あるいは、「国家改造断行」に関する請願運動をまき起こして、長野・富山・石川等の諸県の農村団体を動員した。大本教といえば、当時、その資金の豊富さをもって聞えていたので、この資金をバックとする昭和神聖会の政治的将来は相当注目されていたが、一九三五年(昭和十年)冬に大木教事件なるものが起こり、教主出口王仁三郎は不敬罪・治安警察法および治安維持法違反をもって追及され、ついで一九三六年三月に昭和神聖会は解敗を命ぜられた。これは日頃愛国主義を口にし、尊皇の大旆〈タイハイ〉をふりかざしていた日本国家主義団体および一部の軍人が、このような「不敬罪」被告と相結んだことは、なんといっても不審のそしりをまぬがれず、玄洋社以来の内田良平の「晩節」を汚すものとされた。
 昭和神聖会の「主義」および「綱領」は次のとおりであった。――
        主  義【略】
        綱  領【略】  〈275~278ページ〉

 木下半治は、ここで、当時の国家主義指導者は、「ただただ大本教の財力に眩惑されて出口の策謀に乗っていった」と書いているが、こうした評価には疑問がある。
 第一に、「出口の策謀」なるものに対し、木下は何らの説明もおこなっていない。出口が、国家主義の指導者らと結ぶことで、何らかの策謀をおこなっていたと判断する根拠はあるのか。
 第二に、その策謀は、具体的に、どういった策謀だったと木下は捉えていたのか。
 第三に、出口王仁三郎を、「不敬罪」等に問うたこと自体が、司法当局の策謀ではなかったのか。おそらく司法当局は、軍部と民間右翼とが、大本教を媒介として結びつく事態を恐れていたのではないか。「出口の策謀」なるものを、司法当局が把握していたわけではなかった。大本教を媒介として軍部と民間右翼とが結びつく事態を恐れ、その可能性をつぶしておこうと考えたのであろう。
 木下半治によれば、大本教が弾圧されたあと、「日本国家主義団体および一部の軍人」は、「不敬罪被告と相結んだこと」で、「不審のそしり」をまぬがれなかったという。王仁三郎の前でお世辞を並べた天下の名士・軍人は、「わらいもの」になったともある。軍部と民間右翼を分断しようとした司法当局の狙いは、ズバリ当たったことになる。
 明日は、戦前版『日本国家主義運動史』の紹介に戻る。

*このブログの人気記事 2024・6・23(9位になぜか荻生徂徠)

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