◎海軍、海べ、海原、海老、海豚、海女、海苔―海の字の読みは?
松坂忠則著『国字問題の本質』(弘文堂、一九四二)から、第一章「文字から見た現代文化」の第二節「漢字と国民教育」を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した部分のあと、一行あけ、次のように続く。
義務教育は、六年制度のこれまでとしても、できるだけ一人前の社会人を作ることを目ざしていたのであるから、このリソウからいえば、実社会に五、〇〇〇の漢字が用いられているならば、六年間にそれだけのものを教えるべきであった。しかし実際は、一、三六二字を教えたに過ぎない。しかも実際は、六年を出る時のコドモらが書き得る数は、五百字前後であった。
この書取能力の調べも、私らがカナモジカイの事業として昭和十年〔一九三五〕の春に、東京市内の十二の小学校の一、四七九名について行ったのであるが、この調べに代るほどのものは未だどこからも発表されていない。そのくわしい内容はあとでのべる。
ともかくも、六年間に一千字あまりしか教えておらす、しかも五百字しかおぼえられないとゆう、この数字が、そのままに、漢字の数の多過ぎるために生ずるフタンの大きさを告白しているであろう。
漢字をおぼえることの第二のナヤミは、読みかえのわずらわしさにある。このナヤミは、漢字の本家たるシナにはないナヤミである。シナでは、一つの字には一つの読み方しかない。まれに二つあっても、それは日本の例でいえば、「由」を「ユ」とも「ユウ」とも読むたぐいであって、同じチスジの読み方に限られている。たとえば「上海」の「海」は、山海関でも、海口でも、すべて「ハイ」である。ところが日本では、現在の小学校の読本〈トクホン〉では、二年生の時に「海軍」で「カイ」と教わり、三年生になって「海べ」で「ウミ」と教わり、六年生になれば「ウナ」と読む「海原」が出て来るしかけになっている。この外に、三年生の読本には「えび」があり、六年生のには「いるか」があるが、実社会ではこれを「海老」、「海豚」と書いているし、まだ、海女【アマ】、海苔【ノリ】、海鼠【ナマコ】、海月【クラゲ】、海豹【アザラシ】などもひかえている。読み方が一種類しか無い漢字は、日本においては、字音のない和字のほかには、「菊」のように字音のみのものが、ごくまれにあるだけである。
一年生ぐらいのコドモの中には、よく「人」とゆう字を「リ」と読んだり「ナ」と読んだりする者がある。エホンの説明文のフリガナなどにおいて、「一人【リ】」あるいは「大人【オトナ】」とゆうのを見て知ったものである。一字に二通りの読み方があるとゆうことは、単に二通りの読み方をおぼえれば済むことのように見えるが、事実は、その文字を使って書かれているあらゆるコトバについて、甲の読み方であるか乙の読み方であるかを知らなければ、その文字を使いこなせないとゆう、実にやっかいな結果をうむのである。たとえば「海」の読み方にはウミとカイとの二つしか無いとしたところで、それだけのことを知っただけでは、「海松」が「カイショウ」か「ウミマツ」かは、わからない。(海松は「クロサンゴ」の別名、ウミマツ)あるいは、海酸漿がウミホウズキで、海辺はウミベでも、カイへンでもよいとゆうことがらは、それらのコトバの一つ一つについて教わる以外には方法がない。【以下、次回】
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