礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

松川事件の「真犯人」に遭遇した村上義雄さん

2015-07-06 06:07:36 | コラムと名言

◎松川事件の「真犯人」に遭遇した村上義雄さん

 昨日の続きである。松川事件の現場まで行ったあと、この事件についての関心が高まった。松川事件差戻し控訴審(仙台高裁)の裁判長を務めた門田實〈モンデン・ミノル〉の『松川事件の思い出』(朝日新聞社)を手にとってみた。この本は、以前読んだときは、それほど面白いとも思わなかったが、今回は、いくらか土地勘がついたせいか、実に面白い。
 本日は、そこに引用されていた、当時の新聞記事を引用してみよう。事件の直前、現場付近で、「真犯人」の可能性のある九人を目撃した人物がいた。この記事は、その人物・村上義雄さんが、法廷でおこなった証言を紹介したものである。〔 〕は、原文にあったもので、たぶん、門田實による注記であろう。【 】は、礫川による注記。

毎日新聞(昭和三五年〔一九六〇〕九月一八日)
弁護側の反撃で激化
 大きな男九人見た
  村上証言 転覆の三〇分前に
 松川事件差戻し審の九月公判最終日は一七日午前一〇時から仙台高裁刑事一部(門田裁判長ら四裁判官)で開かれ、弁護側申請証人、村上義雄さん(四四)〔福島県二本松市南杉田、板金工〕の証人調べが行われた。同証人は弁護側の主尋問に対し「事件当夜現場近くで九人連れにあった」と当時の状況を詳細に述べた。一〇月公判は一一、一三、一五の三日間開かれるが、九月公判の弁護側の巻返しで証言合戦はさらに激化しそうな様相を見せてきた。
 村上証人の弁護側主尋問に対する証言
【一九四九年八月】一五日夜、平間【高司】のほかに郡山〈コオリヤマ〉の飲み屋で知合った佐久間という男と三人で金谷川〈カナガヤワ〉小学校のすぐ前の家(大槻呉服店)の土蔵を破った。反物などを運び出した時に、家人が電灯をつけたので盗品やドライバーなどと自転車をその場に捨てて逃げた。翌日【一六日】夜再び土蔵破りをするつもりで小学校付近を回ったがうまくいかなかったのでやめ、小学校付近の裏山で別れた。
 その後一人で山を越えると線路がみえ、線路脇に出てタバコを吸いかけたところ、線路の反対側を通りかかった三人が私に気づいて立ちどまった。
 驚いて「おばんです」とあいさつしたところ「こんばんは」と相手が答えた。内心では自分がつかまえられるのではないかとビクビクし、刃渡り五センチの切出しナイフを右手に構えたが、三人はそのまま行ってしまった。
 間もなく自分より背の高い六人がやってきた。仲間同士で「飯坂温泉はどの方向か」と話合っていた。東北弁ではなかった。
 九人に会ったのは事故現場から六、七十間(約二一〇メートル)金谷川駅寄りだったと思う。私は現場から五〇メートルほど松川駅寄りの踏切を左に折れ、三〇〇メートルくらいの地点で休んでいた。九人連れに会って三〇分くらいたったろうか「汽車が来たな」と思っているうちにガーッとものすごい音がした。蒸気のパイプが破裂したような音だった。
 夜の明けるころ騒々しいので通りかかった娘さんにきくと「汽車がひっくり返ったので見にゆく」というので私も見にいった。
 松川事件の被告たちとは福島拘置所で顔を合わせたが、事件当夜のことは話さなかった。昨年四月ごろ二本松の親友の二階堂と料理屋で酒を飲んだ時にその話をした。警察には今年の四月七日ごろ、日光(栃木県)裏の川俣温泉双葉荘で福島県警本部の安斎警部補や、栃木県警今市〈イマイチ〉署の警部補たちに調べられた。私が現場近くで「三人と六人の九人連れに会った」と話したところ、安斎さんが「赤間は三人でやったといっているんだ。あとの六人は違うだろう」などといわれた。「ああいう珍しい事件の夜だったから頭にこびりついて忘れられない」と私がいくらいっても信用されないので一時間くらい議論した。その後も安斎さんの取調べをうけ「九人というのは錯覚でないか」「考え直したか」などと何回も聞かれた。
 検察側反対尋問に対する証言
 事件後福島拘置所で赤間【勝美】たちをみて、体格が違うからやはりあの九人がやったんだと思った。昨年五月ごろ東京の通信社(社名はわからない)の人に新聞に出さないという約束で当時のことを話した。その翌日後藤【昌次朗】弁護士に二本松駅前の旅館で三時間くらい当時のことを聞かれた。
 昨年八月、さきと同じ通信社の案内で平間と私のほか、自分の子供と弟の四人で東京に行き、自分も平間も後藤弁護人から調べられた。その時事件の夜線路に出た時間を聞かれたが、「わからない」と答えた。
 現場の地理は事件前後土蔵破りなどの下検分で何回も歩いていたからよく知っている。また昨年夏、通信社の人を案内してその付近を歩いたこともある。安斎警部補は別にこわいとは思っていない。後藤弁護人から証人に出るよういわれたが、自分は出たくなかった。

 この毎日新聞記事にある「大槻呉服店」は、陸羽街道の西沿いにあった商店のことだが、この商店は今日なお、同じ場所で「ファミリーショップおおつき」として営業しているという(インターネット情報)。事件現場からは、西北方向に位置している。金谷川小学校は、現在の地図でみると、陸羽街道から東へ少し入ったところにある。当時も同じ位置にあったとすると、「小学校のすぐ前の家(大槻呉服店)」という村上義雄さんの表現は、適切とは言えない。
 村上さんは、金谷川小学校付近から、「山を越え」て、事件現場より一二〇メートルほど金谷川駅寄りの(つまり北方向の)線路ぎわまでやってきた(この時点で、すでに八月一七日)。だとすると、村上さんが越えてきた「山」というのは、「地蔵岡」を指すのではないだろうか(昭文社の地図『福島市』〔福島県1〕を参照した)。
 ともかく、その線路ぎわまでやってきた村上さんは、そこで九人の男と遭遇した。この男たちが、事件の「真犯人」だとすると、すでに事件現場で作業を終え、現場から離脱すべく、線路の西側を歩いていたときに、線路の東側にいた村上さんに気づいたということになる。
 そのあと村上さんは、線路沿いに松川駅方向に(南方向に)歩いて、石合踏切にいたり、そこから左に(つまり東に)折れ、三〇〇メートルほど行ったところで休んでいた。そのときに、「ガーッ」というものすごい音を聞いたということになる。

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