静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 靖国神社に参る”こころ”と 戦争責任の総括は別だ ≫   参拝者へのインタヴューから浮かび上がること  連合国ではなく 国民の側からの戦争責任総括を!

2018-08-16 09:36:47 | 時評
★☆ 靖国ルポ:終戦の日の思いそれぞれ 戦禍忘れない https://mainichi.jp/articles/20180816/k00/00m/040/128000c?fm=mnm
1) 参拝者が何を、どう思って靖国に足を運んだのか? 無論、全ての声ではないが、代表的な気持ちを拾っているであろうと言う感触は得られるので、詳しくは呼んで戴くこととして、
  総括すると、①「現在までの不戦と平和は、無くなった人たちのお蔭だ」 ②「A級戦犯が合祀されていることは、犠牲になった人達を悼み弔う気持ちとは別だ」 
  ③「ともかく、国の為に命を捧げたことは理屈抜きに尊い」・・だいたいこのような傾向に聞こえる。

2) 記事には出ていないが「戦争は悲惨なものだから、理由は問わず戦ってはならない」との思いは恐らく参拝者に共通するものだろう。靖国でなくとも、従軍せずとも戦没した人の
   墓に人々が参拝する時の思いも同じで「戦争は皆を不幸せにするから、繰り返してはいけない」。

⇒ 唯、不戦を誓う純粋な感情/気持ちは共有されていても、靖国神社そのもの歴史と現在までの在り方を考えるならば、お盆で近所の墓に参って手を合わせるのと靖国参拝は決して
  同じでない。様々な識者が何度も指摘してきたように、靖国がすなおな心根で誰もが心から行けない場所に何故なってしまったのか?
  その背景を、参拝する人は参拝しない人以上にちゃんと考えた上で行かないと、日本の場合、他の国にもある<国家が保護する慰霊の場>と同じ扱いにはできないのだ。

 なぜ同じにはできないというのか? 
・・・・戦死者といっても幕末の内戦は明治政府への礎づくりを妨害するものだからと外されている。新しい国造り/革命の為に戦ったという点では同じ筈。これだけでも可笑しいのだが、
    明治以降の政府が天皇の詔勅で起こした戦争<西南の役という名の内乱も含め>に召集され、戦いで死亡した国民しか葬らない
 ・・・国家の為に命を捧げた人だけを祀る、生き延びた人は外される原則なのに、此の原則に外れた人達が葬られているからである。 ← 誰のことを指すか、言わずと知れたこと。 
 
 連合軍が去ったあと、戦犯合祀をコソ泥の如く強行した宮司は咎められないまま、後世の誰も合祀を訂正しようとせぬままの既成事実化が 今日現在まで変わらず放置されている。 其の宮司は笑止千万なことに「信教の自由」を盾として、法律違反に問われ罰されることもない。 それが許されてきた理由は憲法の建前をよそに、靖国そのものが”国家神道”だからで、それは現行憲法の政教分離原則に違反している。

”この現状を赦すのか、許さないのか?” それは連合国ではなく 国民自身による戦争責任の総括であり、国民一人一人が答えを求められている。
 ・・<赦すも許さないもない>と答えを忌避し、直視しないなら戦没者を悼む場として、他はともあれ、靖国だけには行ってもらいたくない。
 
  何よりも、戦争を命じた最高の立場の天皇(昭和&平成)自身が靖国へは行かない意思を、国民である貴方はどう考えるか? 未だ この問いから顔をそむけるか?
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