本書は、創元社から1939年刊行された原本を文庫化したもの。だが、その原本自体が、アメリカで著者の生前発行された原典(1917年刊)が死後(1925年)まもなく石川氏により訳出されたものの
抜粋だ。原著の全訳本は東洋文庫171【平凡社】にある。モース(1838-1925)といえば『大森貝塚』発見の動物学者として名を残しているが、専門領域の学術功績もさりながら、気楽な旅日記・観察記として彼が好奇心のまま綴ったメモ/スケッチを、帰国後整理した”JAPAN DAY BY DAY” が本書である。
幕末から明治初期にかけて滞在した外国人が書き残したモノは多い。書き手の内訳は宣教師や外交官、医者、軍人、探検家、画家、お雇い技術者と多岐に亘るが、モースは植物学のフォーチュン、或は、
美術史学のフェノロッサなどと同様に生まれたばかりの帝国大学に招聘された学者である。幕末から維新に向かう戦乱に立ち会った外交官の事件談や幕僚たちとの苛立たしい折衝苦労話とは違い、
モースの初来日は西南戦争まっ最中の1877(明治10)年。其の後の大久保利通暗殺時も東京に居たタイミングゆえ、将軍家による封建統治の名残と江戸文化が消えずに残る日本を最後に目撃した貴重な
証人となった。
西南戦争終結で漸く明治政府は新国家建設に専念できるようになったが、西郷&大久保を失った明治政府は、このあと国家の方向を大きく転換し、人々の生活から急速に江戸の面影は消え失せる。
それは急速な西洋化&近代化の歪みであるだけでなく、清国/李氏朝鮮をめぐる動揺に維新以後の不満や内憂騒乱の矛先を振り向けさせる軍国化への大転換であり、1945年の滅亡に繋がる。
軍国日本への対外的エポックメーキングは日清戦争(1895年)になるが、日本の社会から完全に江戸以前を消し去る契機は、やはり西南戦争だったのではないか? 此の意味において、モースが
本書に遺してくれた≪変質する前の江戸期日本の姿≫はとても貴重な記録である。
それにしても、日清戦争から大日本帝国滅亡まで、たった50年!西南の内乱から日清戦争までは18年。この僅か20年足らずで、日本人は江戸までに培ってきた表情・心情を捨ててしまった。
捨ててしまったモノの中でも最も惜しまれるのが、外国人を驚かせた老若男女問わぬ<礼儀良さ><朗らかさ><笑い声><幸せそうな笑顔>であり<開放感溢れる住環境>だった。
それはモースに限らず誰もが書き遺しているが、加えて<カギ・監視人が居なくても盗難が起こらない>事も特筆している。実際、モースは2度目の来日時に訪れた広島の旅館で、大胆にも現金と
懐中時計を預け、採集旅行に出ている。この試みは先人から聞いていた<日本ではカギ・監視人が居なくても盗難が起こらない>を自分の眼で確かめたい一心だったと書いている。
科学者らしい日常観察で彼が驚き感心・賛嘆した出来事を列挙しては紙幅が足りない。例えばアイヌ人の生活、聞きなれない邦楽、落語や講談、朝鮮文化との比較、火葬場、お歯黒の実写、鷹狩り、
維新後に禄を失い下男になった元幕閣武士の描写など、現代日本人が既に知らない江戸までの日本を窺い知るうえでは実に興味深く、貴重なレコードである。
だが、私はモースの記録が他の人たちと際立たせて違う価値を出さしめた最大の特徴を述べたい。それは文明批評や異文化論でありながら、そこには西洋人が逃れ得ない優越感や基督教精神からくる
狭量さがカケラも見当たらない点だ。逆に、庶民生活の明るい穏やかさ、壬申暴動直後の朝鮮人に対しても礼節を崩さない日本人の態度に、西洋社会の野蛮さ未熟さを恥じる言葉が出てくる。
それは東洋や日本の文化を遅れた遺物と侮蔑する欧米の風潮への反発であり、彼の両親が偏狭な教会信者だった事への反発が底にあった、と解説者・牧野陽子氏は指摘している。
私はハリス、オールコック、シュリーマン、タウト、ニコライの著作、そしてイザベラ・バードの旅行記を読んだが、モースほどの庶民目線で明治10年頃の日本人の生活を活写した作品は無い。
其の活写は偏見や優越意識を持たなかったからこそなし得た内容である。考えてみれば、それは大変なことであり、日本人が逆に外国の事物を記録した著作で同じ公平さを保ているか?と思う。
幕末から明治期を描いた外国人の著作を概括した労作に『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー(渡辺京二)がある。書架から取り出し目を改めて通すと、モースの本書が多く引用されている。
渡辺氏の想いは、昭和20年までの日本を振り返るには明治時代だけでなく、明治維新が消してしまった江戸を振返らねば、との歴史観だ。それは私も全く同感で、明治X年などと祝う前に、
明治以前の日本が持っていた何を我々は維新から敗戦までに失ったのか? これを考え直す事が即ち、明治から戦前までの昭和日本を正しく総括する意味になる。
渡辺氏の大きな捉え方に即し、戦前・戦後を総括するうえでも、モースの本書は是非ともお読み戴きたい良書と確信する。 < 了 >
抜粋だ。原著の全訳本は東洋文庫171【平凡社】にある。モース(1838-1925)といえば『大森貝塚』発見の動物学者として名を残しているが、専門領域の学術功績もさりながら、気楽な旅日記・観察記として彼が好奇心のまま綴ったメモ/スケッチを、帰国後整理した”JAPAN DAY BY DAY” が本書である。
幕末から明治初期にかけて滞在した外国人が書き残したモノは多い。書き手の内訳は宣教師や外交官、医者、軍人、探検家、画家、お雇い技術者と多岐に亘るが、モースは植物学のフォーチュン、或は、
美術史学のフェノロッサなどと同様に生まれたばかりの帝国大学に招聘された学者である。幕末から維新に向かう戦乱に立ち会った外交官の事件談や幕僚たちとの苛立たしい折衝苦労話とは違い、
モースの初来日は西南戦争まっ最中の1877(明治10)年。其の後の大久保利通暗殺時も東京に居たタイミングゆえ、将軍家による封建統治の名残と江戸文化が消えずに残る日本を最後に目撃した貴重な
証人となった。
西南戦争終結で漸く明治政府は新国家建設に専念できるようになったが、西郷&大久保を失った明治政府は、このあと国家の方向を大きく転換し、人々の生活から急速に江戸の面影は消え失せる。
それは急速な西洋化&近代化の歪みであるだけでなく、清国/李氏朝鮮をめぐる動揺に維新以後の不満や内憂騒乱の矛先を振り向けさせる軍国化への大転換であり、1945年の滅亡に繋がる。
軍国日本への対外的エポックメーキングは日清戦争(1895年)になるが、日本の社会から完全に江戸以前を消し去る契機は、やはり西南戦争だったのではないか? 此の意味において、モースが
本書に遺してくれた≪変質する前の江戸期日本の姿≫はとても貴重な記録である。
それにしても、日清戦争から大日本帝国滅亡まで、たった50年!西南の内乱から日清戦争までは18年。この僅か20年足らずで、日本人は江戸までに培ってきた表情・心情を捨ててしまった。
捨ててしまったモノの中でも最も惜しまれるのが、外国人を驚かせた老若男女問わぬ<礼儀良さ><朗らかさ><笑い声><幸せそうな笑顔>であり<開放感溢れる住環境>だった。
それはモースに限らず誰もが書き遺しているが、加えて<カギ・監視人が居なくても盗難が起こらない>事も特筆している。実際、モースは2度目の来日時に訪れた広島の旅館で、大胆にも現金と
懐中時計を預け、採集旅行に出ている。この試みは先人から聞いていた<日本ではカギ・監視人が居なくても盗難が起こらない>を自分の眼で確かめたい一心だったと書いている。
科学者らしい日常観察で彼が驚き感心・賛嘆した出来事を列挙しては紙幅が足りない。例えばアイヌ人の生活、聞きなれない邦楽、落語や講談、朝鮮文化との比較、火葬場、お歯黒の実写、鷹狩り、
維新後に禄を失い下男になった元幕閣武士の描写など、現代日本人が既に知らない江戸までの日本を窺い知るうえでは実に興味深く、貴重なレコードである。
だが、私はモースの記録が他の人たちと際立たせて違う価値を出さしめた最大の特徴を述べたい。それは文明批評や異文化論でありながら、そこには西洋人が逃れ得ない優越感や基督教精神からくる
狭量さがカケラも見当たらない点だ。逆に、庶民生活の明るい穏やかさ、壬申暴動直後の朝鮮人に対しても礼節を崩さない日本人の態度に、西洋社会の野蛮さ未熟さを恥じる言葉が出てくる。
それは東洋や日本の文化を遅れた遺物と侮蔑する欧米の風潮への反発であり、彼の両親が偏狭な教会信者だった事への反発が底にあった、と解説者・牧野陽子氏は指摘している。
私はハリス、オールコック、シュリーマン、タウト、ニコライの著作、そしてイザベラ・バードの旅行記を読んだが、モースほどの庶民目線で明治10年頃の日本人の生活を活写した作品は無い。
其の活写は偏見や優越意識を持たなかったからこそなし得た内容である。考えてみれば、それは大変なことであり、日本人が逆に外国の事物を記録した著作で同じ公平さを保ているか?と思う。
幕末から明治期を描いた外国人の著作を概括した労作に『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー(渡辺京二)がある。書架から取り出し目を改めて通すと、モースの本書が多く引用されている。
渡辺氏の想いは、昭和20年までの日本を振り返るには明治時代だけでなく、明治維新が消してしまった江戸を振返らねば、との歴史観だ。それは私も全く同感で、明治X年などと祝う前に、
明治以前の日本が持っていた何を我々は維新から敗戦までに失ったのか? これを考え直す事が即ち、明治から戦前までの昭和日本を正しく総括する意味になる。
渡辺氏の大きな捉え方に即し、戦前・戦後を総括するうえでも、モースの本書は是非ともお読み戴きたい良書と確信する。 < 了 >