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シルディ・サイババ(第二十二章前置き)

2011-10-07 | シルディ・サイババ

どうやってババに瞑想すればよいだろう?全能者の本質や姿を推し量ることのできる者はいなかった。ヴェーダですら、千の舌を持つシェシャ1ですら、それを完全に描写することはできないし、帰依者もまた知りようがなかったが、彼らはババの御足が唯一の避難所であることを知っていたので、そこに主の姿を見ればよかった。彼らはババの御足を瞑想する以外に、人生の最高の終着点に到達する方法を知らない。ヘマドパントは信仰や瞑想の簡単な方法について次のような提案をしている。

 

  毎月のうち2週間は闇が段々濃くなって月の光が衰えてゆき、新月の日には月は全く見えなくなる。それから明るい2週間が始まり、人々は早く月を見たいと願う。新月の一日目、月は全く見えず、二日目には細い三日月形を現す。

 

人々は2つの木の枝の間から月を見たいと願い、やがて小さな三日月が視界に映るようになる。この例に従って、ババの姿を見てみよう。ババの姿勢を見よ、なんと素晴らしいことか!彼は右足を折り曲げ左足の膝に掛けて座っている。左手の指は、右足の上で広げている。つま先にかけて、手の人差し指と中指の2本の指を広げているのだ。この姿勢をとりながらババはこんな風に言っているようである。

 

「私の真実の姿を見たいのなら、エゴをなくしもっと謙虚になり、開いた人差し指と中指の間から私のつま先を瞑想するがよい。そうすればあなた方は私の光を見ることができるだろう」

 

  さてここでババの生涯に戻ろう。シルディはババが住んでいたおかげで巡礼の聖地となっていた。各地から人々が群がり始め、金持ちも貧乏人も様々な方法で恩恵を受けるようになった。ババの無限の愛と素晴らしい知識、そして彼の遍在する様を誰が説明することができるだろうか?これらを体験し得た者は幸いである。

 

時々ババは長い沈黙に入ったが、その様はある意味ブラフマンを論じていた。またあるときは彼は純粋な意識 - 帰依者たちに囲まれた至福の権化であった。ある時はたとえ話を使って話し、あるときはウィットとユーモアに富んだ話をした。時には非常に穏やかだったが、時には激昂して見えた。ある時は非常に簡潔に教えを説き、ある時は長い時間論じた。

 

多くの場合彼は非常に直接的だった。こんな風に彼は大勢の人々に、それぞれの要求に応じた様々な教えを与えた。彼の生涯は不可解で、私たちの知力や言葉の及ぶ範囲を超えていた。私たちの彼の顔を拝みたい、彼と話をしたい、彼のリーラを聞きたいといった強い願いは尽きることがなかったが、それでも私たちは喜びに満ち溢れていた。雨の量や風の強さを測ることはできても、ババのリーラはどうして推し量ることができようか?ここではそうしたリーラの一つの側面、彼がどのように帰依者たちの不幸を予見して、それを未然に防いだり、折りよく彼らに警告を与えたのかを見てみよう。

 

1.      ヒンドゥー教によれば、地球は千の頭を持つ蛇シェシュナグの頭の上で休んでいるのだという。

 

 

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