まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

ボローニャ歴史的中心部の修復活用(2011視察02)

2011-10-01 16:17:22 | 海外巡礼 South Europe

9月の初めに訪れたボローニャ、ウルビノそしてミュンヘン、アウグスブルグのことをメモしておきます。帰国後してすぐに日程がつんでしまい、中々記録を残すことができませんでしたがこれ以上おいておくと忘れることもありそうです。

     

<ボローニャにきた理由は?>

ひとつはいわゆるチェントロストリコ、歴史的中心部の修復的再開発の成果と考え方を確認することです。もうひとつは、城壁の内側ですが中心部から外れて寂れていた北西部のFactory of Artsと呼ばれる再開発地区を見ることです。

この他時間があれば、日本の建築家丹下健三氏のマスタープランでつくられたフィエラ地区と、ボローニャ市のアーバンセンターを見たいと考えています。

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ボローニャの町のど真ん中には水路があります(上写真)。

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ボローニャ名物ポルティコにもいろんな種類があります。木製です(上写真)。

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ダブルハイトの木製ポルティコです(上写真)。

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こういったものが最も多く見られるものでしょうか。アーチのスラスト力(水平に広がろうとする力)をタイバーでバランスさせています。後の時代に加えたものでしょう(上写真)。

<イタリアにおける都市化の歴史のなかでのチェントロストリコ>

イタリアと日本はいろんな意味で似ています。

日本の幕末とほぼ同じ1870ごろ統一国家となりました。産業革命が遅れた農業国からスタートしたわけです。

その後、19世紀末から20世紀にかけて工業化を進め、都市化が進み人口構成も大きく変わる。敗戦で大きなダメージを受けますが、敗戦後1950年代、60年代に大きく飛躍します。都市化もその時期に一層進展します。

都市開発という視点ではどうでしょう。

19世紀末から20世紀にかけては都市壁(城壁)を壊して郊外を開発したり、道路網の整備などの社会基盤整備が進められます。明治時代に道路橋梁などの社会資本に投資を集中するなど日本も似たようなことをやっています。

こういった中で、歴史的中心部がどのように扱われてきたのでしょうか。

Marcello Vittorini 「イタリア国土の変貌と歴史的街区」『都市住宅特集 都市の思想の転換点としての保存』1976年7月号所収論文を参考に概括してみましょう。

まず統一以後の国家基盤の形成とともに道路の拡幅などで中心部の破壊が進んだ時期があります。ただとくに中心部が重要な場所として考えられていたわけではなく第2次世界大戦までは、放置されとくに計画対象ともなっていなかったのです。

戦後の都市集中過程では、歴史的中心部の外延が投機の対象となりました。郊外へと住宅投資が集約されたのです。中心部からはブルジョア階級が脱出し貧しい人たちが町の真ん中に取り残された形です。

一方でオフィスや商店、ホテルなど三次産業への需要は高まってきます。それに対応して、スクラップアンドビルドによる都市改造の動きも出てきました。老朽化した歴史的建築物に住む住民を追い出しい業者が買い取り「再構成」する方式。ミラノ、トリノ、ジェノバそしてナポリやローマでもこの傾向が強かったようです。

この結果、わたしほ中心部はブルジョアが棲み占用する町となり、職人や小規模店主、古くからの住民がいなくなってしまうというのが各都市に共通の現象でした。

こういった中で、大きな転換点がおとずれます。都市計画法の改正議論が高まり将来の改正に向けた1967年「橋渡し法(legge-ponte)」です。この「橋渡し法(legge-ponte)」は建築認可の強い権限、コムーネの計画づくりへの国の介入などの基本的な枠組み整備に加え「歴史的街区の区域規定と、その内部における保存的再生の十分な実施計画」を義務付けるものだったのです。

歴史的街区についても「単に文化財であるだけでなく、基本的重要性をもつ経済的資産でもあるという概念」が生まれ、定着したきっかけとなっています。

1960年代後半というのは、日本でもそうであったようにイタリアにも既存の価値観やシステムをめぐる根本的な議論があったように思えます。

引き続きこの時期に都市と環境をめぐる広範な議論が起こりました。

その中で住宅法1971が社会党内閣で成立します。中心部居住者の権利を保証する形での計画事業作成を促進したり、所有権と使用権を分離する形での土地収用を可能にするなどの仕組みが整えることが目的のひとつでした。

このころ歴史的街区をめぐる関心はすでにヨーロッパ諸国で共有されており、ヨーロッパ評議会は1975年を「我々の過去のための未来」「建築遺産のためのヨーロッパの一年」と定めている。これに向けボローニャで歴史的街区に関する会議が開かれ、ボローニャ市が進める事業計画に高い評価を与えたという。

また、後に紹介しますが、ボローニャ市役所のFederica Legnaniさんによると、国の法律はボローニャの実践を後追いしたとのことでした。

以上Marcello Vittorini の古い論文を頼りに歴史的街区がどう扱われてきたのかを概括して見ましたが、星野まりこ氏の以下の報告との一致も確認できます。

ボローニャ市では「記念碑的な建造物を保存修復するより、一般の人が住み・働く建物を保存再生することを目指した『都心庶民住宅地区再生事業』」を開始し、「低所得者層を都心部にとどめるだけでなく、都心の文化的価値を再認識」することを実践した。「この低所得者住宅の再生による都心部活性化のシステムは『ボローニャ方式』と呼ばれ、都市再生のモデルとして世界中の都市計画者の注目するところとなった」(星野まりこ『ボローニャの大実験』、p24,三推社/講談社、2006)。

さて、以上のことを予備知識として、Legnaniさんの話を聞き、そののち、Solferino地区の見学を行ないました。


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