落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

Ray we have no interest in a milkshake that contains NO MILK.

2017年08月13日 | movie
『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』

1954年、ミルクシェイク用ミキサーのセールスマン・レイ(マイケル・キートン)は、カリフォルニア州サンバーナーディーノのハンバーガーショップが一度に5杯のシェイクがつくれる製品を8台も購入したことに関心を惹かれ、店を訪問。メニューを限定し、厨房を工場式にしてとにかくスピードとクオリティ重視のスタイルをオーナーのマクドナルド兄弟(ジョン・キャロル・リンチ/ニック・オファーマン)に披露され、フランチャイズ化をもちかける。
いまや世界中に展開され、ファストフード、ハンバーガーの代名詞ともなったマクドナルドの巨大化を、事実を基に描く。

なんというか、アメリカってやっぱめっちゃ自由だよね。
だって超えげつない話なんだよ。こんな映画日本じゃ絶対つくれっこないよ。いままでだってやれ『スーパーサイズ・ミー』やら『ファーストフード・ネイション』やらマクドナルドを題材にした映画はつくられてきたけど、どれも観て「わあマック食べて帰ろ♪」なんて気分にぜったいなんない。エグくて。無理。事実、日本じゃこの手の映画はほとんど一般のメディアでは宣伝されてない。『スーパーサイズ・ミー』なんかオスカー候補にまでなったのにがっちり無視されてたもんね。
しかし今作は過去2作と比較してもまた格別なえげつなさです。だってもう健康とか衛生とか搾取とか、そういう問題ですらないんだもん。人が人としていちばん大事にするはずの誠実さを、力いっぱいコケにしてムチャクチャに踏みにじったうえで史上稀に見る大成功をおさめる、そういうサクセスストーリーなんだよ。
そら気分わるいことこのうえないです。

最初にマクドナルドを経営していた兄弟は、シンプルな家庭料理だったハンバーガーとフライドポテトとミルクシェイクを、安く、素速く、かつ高品質なままで提供しようとして独特のワークフローをうみだし、そして当然のごとく成功した。
当たり前のことだよね。うちで食べる定番メニューがもっと安くて速くておいしく買える、家族みんなで気楽に食事できる街のレストラン。ここまで長く続いたかどうかは別として、そんなお店がすぐ近所にできたら、「じゃあちょっと行ってみよう」「たまにはあそこで済ませよう」なんて誰にとっても馴染みのスポットになっただろう。それはマクドナルドのシステムが素晴らしかっただけじゃない。おいしいものを手軽に楽しんでほしいという、マクドナルド兄弟のサービスへの熱いこだわりと愛が、地域社会に伝わったからじゃないかと思う。
でもレイはそんなものどうでもよかったのだ。彼はとにかく成功したかった。ゲームのようなスピードで店舗を増やし、利益を出すことだけを考えた。マクドナルド兄弟となかよくうまくいくわけなんかない。
彼には愛なんか何の意味もなかった。いくらでもえげつなくなれるわけです。

映画に描かれたマクドナルド商法のえげつなさは出だしのほんの一部、レイがただただマクドナルド兄弟を裏切る過程だけなのだが、それでもじゅうぶん腹一杯になれる。
映画の中でレイはまだ消費者まで本格的に裏切ろうとはしていない。実際にはマクドナルド社はそこまでいっちゃうんだけど、そのためにあらゆるメディアから袋叩きにあい、無限に訴訟をおこされまくる企業になる。それでも大成功してるんだから、ビジネスってわからない。
ひとつだけいえるのは、もし「成功」がこんな形でしか現実にならないのだとしたら、すくなくともわたしは、金輪際「成功」なんかしたくないと、はっきり感じたことだ。仮にどっち側にいたいかというなら、裏切られたマクドナルド兄弟の方にいたい。彼らは少なくとも、地域の人においしいものを手軽に楽しんでほしいという夢を叶えた。あたたかくて、ちゃんと手にとれる形ある成功だ。たとえその夢が最終的にレイというバケモノに食い物にされたとしても、彼らをわたしは不幸だとか不運だとは思わない。クリエイティビティの尊さなら、いちおうちゃんとわかるつもりではいるから。
こんなこといったって誰も共感なんかしてくれないことはわかってるけど、それでも。

しかし全編目がイっちゃってるマイケル・キートンはマジこわいです。これもうファウンダー(“創業者”の意)じゃなくてストーカーだよ完全にさ。
この話って商売やってる人、それもまあまあうまいこといってる人からみたらちょっとしたホラーなんだろうな。そういう人の感想がとても聞いてみたいです。



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窓の外で夜の雨がささやき

2017年08月13日 | movie
『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』

治安維持法違反で逮捕され獄中で非業の死を遂げた詩人・尹東柱の生涯を描いた伝記映画。
日本占領下の中国朝鮮族の集落にうまれ、地元の名士の一家でいとこの宋夢奎(パク・チョンミン)と兄弟同然に育った東柱(カン・ハヌル)。ともに文学の道を志すも、朝鮮語教育が禁じられた朝鮮国内での勉学の道を断念、夢奎といっしょに日本に渡り京都帝大を受験するのだが・・・。

7月11日に施行されたいわゆる共謀罪。
現代の治安維持法ともいわれ、国内外から批判が寄せられている。日本国憲法に規定されたプライバシー権(13条:個人の尊重・幸福追求権および公共の福祉)、思想の自由(19条)および表現の自由(21条)に反するという指摘もある。政府は277の犯罪の準備行為を罰することでテロを未然に防ぎ、2020年の東京オリンピック前にパレルモ条約(国際組織犯罪防止条約・TOC条約)を締結するためと説明しているが、パレルモ条約はマネーロンダリングや銃器・違法薬物の取引や人身売買など、マフィアや暴力団の組織犯罪を防ぐための条約であって、テロとは無関係である。まあだいたいパレルモ条約締結してなきゃオリンピックが開催できないっつんならIOCは何を審査して東京に決めたのやらーなんというツッコミはさておき。
この法案の議論の際、政府与党は「一般人は対象にならない」と繰り返し強弁したが、ではいったい「一般人」とは誰のことを指しているのか。法案を支持する有権者は反対するひとびとを指して「後ろ暗いことをしているからだろう」と揶揄したが、では実際にはいったい何をした人が「非一般人」として裁かれるのか。

物語は、東柱が1943年に治安維持法違反で逮捕され、取調をうけるなかで過去を回想する形、つまり東柱本人の主観描写のみで進行していく。
主人公本人にセリフはとても少ない。才気煥発な夢奎は早いうちから文芸誌に応募しては入選したり、家を離れて大陸での独立運動に身を投じたり、その時代の若者ならではの向こう見ずに派手な行動力を発揮するが、東柱はその影に隠れるようにしてもくもくと学校に通い、淡々と叙情的な詩を綴る。
なんでもない詩だ。モノローグに引用された数篇が気になって詩集の邦訳を読んでみたけど、曖昧で静かな心象風景を穏やかな言葉で表現した、優しい作品ばかりである。その当時日本でも支持されてた堀辰雄や立原道造にもちょっと似た感じかな?詩にはぜんぜん詳しくないのですが。
詩を読んだ印象では、映画の人物描写に近い(というか映画も詩からうけたイメージからキャラクターを設定したのかもしれないけど)、おとなしくてどっちかといえば暗い、ごくふつうの男の子だったんではないかと思う。勉強は好きだったんだろうけど、とくべつものすごく頭がいいわけでもない、感性は豊かだけどそれを人前で声高に主張するような子でもない。おそらく平和な時代であれば何事もなく学校を出て、父親と同じように地元の学校の教師にでもなり、世に名を知られることもなく市井に埋没して忘れられていったのではないだろうか。あるいは年経て地方の芸術家として大成することもあったかもしれないし、なかったかもしれない。いずれにせよそれはそれで平穏な人生である。

しかし彼の運命はそんな当たり前の人生をゆるしてはくれなかった。まるで嵐のように闊達な夢奎に引っ張られるようにして日本に留学。中国での独立運動に加担した夢奎はそのときから要監視人物だったらしく、留学した翌年には学徒動員を利用して日本軍内で朝鮮人学生の独立運動を組織しようとしたとして「民族意識の鼓吹・民族運動の煽動にあたる罪」で逮捕された。東柱もいっしょだった。
だが東柱本人が事実そうした運動に参加していたかどうかはわからない。少なくとも映画の中では、詩をかく以外に何をしていたという描写はない。彼はただ夢奎のいとこだったというだけで投獄され、そして虫のように殺された。一家の長男で、両親にたいせつにされ、弟妹に慕われ、恩師には一目置かれ、文学と詩作をこよなく愛した。朝鮮の田舎からでてきて、京都で真面目に英文学を学んでいた、ただそれだけの、まだ何者でもなかった地味な青年だった。逮捕からわずか1年7ヶ月、27歳だった。
戦後になって彼の詩がメディアで紹介されたことで、悲運の愛国詩人、抵抗詩人などとして名が知られるようになった東柱だが、彼本人はこんな形で作品がひろまり、偶像化されていくことをよしとする人だったのだろうか。
もう亡くなってしまった人には尋ねようもないが、作品から勝手に推察するなら、それもちょっと違う気もする。

映画は全編モノクロで登場人物も少なく、複雑な時代背景にもかかわらずシナリオもかなり整理されていて、とてもわかりやすくまとまってたと思います。セリフも半分程度が日本語だけど、出演者全員非常に頑張っておられました。惜しむらくはところどころ整音状態が微妙で、日本人俳優の日本語のセリフなのに意味が判然としない部分が数ヶ所あったくらいでしょうか(まあそれくらいは邦画にもちょいちょい以下略)。
すごくきちんとしたいい作品なので、日本の民主主義の根幹が問われるこの時代だからこそ、ひとりでも多くの人に観て欲しいと思う。
劇場はあんまり観客入ってなかったけど(ハコが大きすぎたのかも)、エンドロールでは拍手が起こってました。

治安維持法で逮捕された人は数十万人ともいわれる。そのうち、記録に残る死者は1,697人(出典)。戦時下でこれを多いと見るか少ないと見るかの判断はべつとして、彼らは裁判で死刑判決をうけてはいない。にもかかわらず、拷問や虐待をうけあるいは人体実験の犠牲となってこれだけの人が命を落とした。
東柱の死はそのまた1,697分の一だが、彼のほか、夢奎も含めた1,696の死もやはり理不尽な死であることに変わりはない。
その理不尽な死のひとつひとつから、後世をいきる私たちが知るべきものは多いのではないだろうか。
ウェブサイトでは自主上映の申込も受けつけているようです。



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