吉田亮人写真展『The Absence of Two』
宮崎県生まれの写真家は、すぐ近所に住んでいた祖母にとっての初孫だった。
その祖母の家に生まれ育ち、写真家以上のおばあちゃんっ子で、小さいうちから祖父母の部屋で起居した10歳下の従弟・大輝くんは、祖父が亡くなった後、ひとりになった祖母のそばで衰えていく彼女の世話をして暮らした。
まさに一心同体のその姿を、従兄は写真家として記録した。80歳を超えた祖母がいつかこの世からいなくなる、遠くない未来まで続けるつもりだったという。雑誌で発表された作品は連載やシリーズ化も決まっていたが、それは突然、大輝くんの失踪で中断された。
撮影しはじめたころのふたり。
食材の買い出し。
最後に撮影されたふたり。
仲の良い家族として親しく接した写真家がとらえた祖母と従弟の表情はあたたかく愛に満ち、平和そのものであると同時に、画面には写らない、目に見えないしがらみの深さも感じさせる。
なぜなら、そこに写っている世界が明らかな袋小路だからだ。
孫として写真家と従弟を愛し慈しんだ老女と、その愛に埋没した人生を生きる青年との関係の先に待っているのは何か。自然の摂理として、人は誰でもいつか死ぬ。成りゆき通りであれば老女がまずその時を迎えるはずである。そしてふたりの関係は終わる。青年の人生にも、彼女との生活によって積み重なった何某かは残るだろう。だが何もかもを許しうけいれる祖母との関係によって、若者が若者であるがゆえに体験する葛藤は、失われたり損なわれたりすることはなくても、あるべき距離より確実に遠くなる。
画面の中で穏やかに微笑みあうふたりが幸せそうであればあるほど、そのふたりの未来の不透明感がうっすらとこわくなる。不思議な家族写真。
「ばあちゃん、いつもありがとう。元気でいてね」という言葉だけを残して姿を消した大輝くんは、約1年後、山林の中で遺体で発見された。自死だった。
遺書はなく、いつ、どうして彼がそんな最期を選んだのか、誰にもほんとうのことはわからない。
そのまた1年後に、祖母も老衰で亡くなった。
23歳の従弟と祖母を亡くした写真家のもとには、大量の作品が遺された。
ギャラリートークで、写真家を続けるかどうかにすら苦しんだと語った彼に、残酷を承知でひとこと尋ねてみた。
祖母が亡くなるまで続ける予定だったというこの記録のその先を、あなたは大輝くんと話したことはあるのかと。
遠くない未来、孫を残して先に逝くであろう祖母の死のあとの己の人生について、大輝くん本人はどうとらえていたのか、あなたは知っていますかと。
もちろん、ふつうの家族ならそんな話はしないだろう。写真家自身の答えもNOだった。
病気や怪我で死期を互いに覚悟するような状況であるならいざ知らず、ごく一般的な家族なら、日常会話としてそれほど深刻な話はまずしない。する機会もないだろうし、あえて避けることもあるだろう。
だが一般論として、若い世代にとって、どんな仕事をしてどこで暮らしてどんな人と出会ってという自分自身の将来像は、日々の生活を支える大きな原動力ではないだろうか。
その将来に、いま、すぐ隣にいて人生のすべてを捧げている人の姿がありえないことに気づかないふりをして生きていくとしたら、それはどんな感覚なのだろう。
たいせつな存在との別れの連続が、知らぬ間に死生観を変えていく。
どんなに親しくても相手のことはほとんど理解していなかったことに気づく。無情な別離のあとに残るどうしようもない虚無感。
心からたいせつに思いながらも知らなかった・あるいはわかろうとしなかったという事実と、生きている限り一生向かいあい続けなくてはならない。
その暗闇が埋まることは二度とない。
なぜなら相手はもうそこにいないから。かつていたという事実以外、わかることはもう何もない。どんなにわかってあげたくても、わかりたくても手は届かない。話しかけることもできない。声を聞くこともできない。
やがてその暗闇が、生きている間に共有した現実以上の「その人」になっていく。
大輝くんにとっていずれ訪れるとわかっていたその「暗闇」は、どんな姿をしていたのだろうか。
少なくとも写真家は、愛する家族との間のその暗闇を作品として世に送り出した。
彼にとっては、このできごとと作品を乗りこえていくことが、これからの写真家人生の大きな課題になっていくのだろうと思う。
あるいは、このできごとと作品の延長とはまったく別の写真家人生を選ぶのかもしれない。
だがこのできごとと作品が、よくもわるくも、彼を作家として別の世界に連れてきたことだけは間違いないと思う。
作家ウェブサイト
祖母と生き、23歳で死を選んだ孫。二人を撮った写真家は思う
宮崎県生まれの写真家は、すぐ近所に住んでいた祖母にとっての初孫だった。
その祖母の家に生まれ育ち、写真家以上のおばあちゃんっ子で、小さいうちから祖父母の部屋で起居した10歳下の従弟・大輝くんは、祖父が亡くなった後、ひとりになった祖母のそばで衰えていく彼女の世話をして暮らした。
まさに一心同体のその姿を、従兄は写真家として記録した。80歳を超えた祖母がいつかこの世からいなくなる、遠くない未来まで続けるつもりだったという。雑誌で発表された作品は連載やシリーズ化も決まっていたが、それは突然、大輝くんの失踪で中断された。
撮影しはじめたころのふたり。
食材の買い出し。
最後に撮影されたふたり。
仲の良い家族として親しく接した写真家がとらえた祖母と従弟の表情はあたたかく愛に満ち、平和そのものであると同時に、画面には写らない、目に見えないしがらみの深さも感じさせる。
なぜなら、そこに写っている世界が明らかな袋小路だからだ。
孫として写真家と従弟を愛し慈しんだ老女と、その愛に埋没した人生を生きる青年との関係の先に待っているのは何か。自然の摂理として、人は誰でもいつか死ぬ。成りゆき通りであれば老女がまずその時を迎えるはずである。そしてふたりの関係は終わる。青年の人生にも、彼女との生活によって積み重なった何某かは残るだろう。だが何もかもを許しうけいれる祖母との関係によって、若者が若者であるがゆえに体験する葛藤は、失われたり損なわれたりすることはなくても、あるべき距離より確実に遠くなる。
画面の中で穏やかに微笑みあうふたりが幸せそうであればあるほど、そのふたりの未来の不透明感がうっすらとこわくなる。不思議な家族写真。
「ばあちゃん、いつもありがとう。元気でいてね」という言葉だけを残して姿を消した大輝くんは、約1年後、山林の中で遺体で発見された。自死だった。
遺書はなく、いつ、どうして彼がそんな最期を選んだのか、誰にもほんとうのことはわからない。
そのまた1年後に、祖母も老衰で亡くなった。
23歳の従弟と祖母を亡くした写真家のもとには、大量の作品が遺された。
ギャラリートークで、写真家を続けるかどうかにすら苦しんだと語った彼に、残酷を承知でひとこと尋ねてみた。
祖母が亡くなるまで続ける予定だったというこの記録のその先を、あなたは大輝くんと話したことはあるのかと。
遠くない未来、孫を残して先に逝くであろう祖母の死のあとの己の人生について、大輝くん本人はどうとらえていたのか、あなたは知っていますかと。
もちろん、ふつうの家族ならそんな話はしないだろう。写真家自身の答えもNOだった。
病気や怪我で死期を互いに覚悟するような状況であるならいざ知らず、ごく一般的な家族なら、日常会話としてそれほど深刻な話はまずしない。する機会もないだろうし、あえて避けることもあるだろう。
だが一般論として、若い世代にとって、どんな仕事をしてどこで暮らしてどんな人と出会ってという自分自身の将来像は、日々の生活を支える大きな原動力ではないだろうか。
その将来に、いま、すぐ隣にいて人生のすべてを捧げている人の姿がありえないことに気づかないふりをして生きていくとしたら、それはどんな感覚なのだろう。
たいせつな存在との別れの連続が、知らぬ間に死生観を変えていく。
どんなに親しくても相手のことはほとんど理解していなかったことに気づく。無情な別離のあとに残るどうしようもない虚無感。
心からたいせつに思いながらも知らなかった・あるいはわかろうとしなかったという事実と、生きている限り一生向かいあい続けなくてはならない。
その暗闇が埋まることは二度とない。
なぜなら相手はもうそこにいないから。かつていたという事実以外、わかることはもう何もない。どんなにわかってあげたくても、わかりたくても手は届かない。話しかけることもできない。声を聞くこともできない。
やがてその暗闇が、生きている間に共有した現実以上の「その人」になっていく。
大輝くんにとっていずれ訪れるとわかっていたその「暗闇」は、どんな姿をしていたのだろうか。
少なくとも写真家は、愛する家族との間のその暗闇を作品として世に送り出した。
彼にとっては、このできごとと作品を乗りこえていくことが、これからの写真家人生の大きな課題になっていくのだろうと思う。
あるいは、このできごとと作品の延長とはまったく別の写真家人生を選ぶのかもしれない。
だがこのできごとと作品が、よくもわるくも、彼を作家として別の世界に連れてきたことだけは間違いないと思う。
作家ウェブサイト
祖母と生き、23歳で死を選んだ孫。二人を撮った写真家は思う