今年も3月11日を東北で過ごした。
2012年のその日をたまたま当地で過ごす機会があって、それから毎年、この日はここに来ている。
今年で5回目。もう習慣のようなものだ。正直、その日に別の場所にいる自分がうまく想像できない。
6年前、私は東京にいて地震を体験した。直後に報道で東北地方の被害を目にして、都内でも続く余震に怯えながら、できることが何かないか探し始めたあのときから、その災害はずっと私の隣にある。
あの災害と、その後の体験は、私をずいぶん遠くまで連れてきてしまった。その道はもう二度と引き返せないところまで来た。
だからたぶん、私の中であの災害が“整理”されて“過去”のものになることは、きっとない。
あるとしても、ずいぶん先の話だろうと思う。いまはまだ、うまく想像できないくらい。
それでも世の中はどんどん先に進んでいく。
あれだけの大災害も、無数の悲劇も不条理も、なかったことにしてしまいたいかのような空気。
誰もが被災した地域とそこで苦しんでいる人たちのことを思い、できることがないか考えたあのころのことはどんどん置き去りになっていく。
それはそれでいいのかもしれない。世の中は前に進むものだから。いつまでも同じところには立ち止まってはいられないから。
でもほんとうは、人が思うほど物事は何もかもがそう都合良くは進まない。“復興”という言葉に追いつめられ、苦しめられている人だってたくさんいる。なのに、彼らのことは誰も見向きもしない。
その一方で、3月11日が近づけば、メディアは思い出したようにあの日の話題をひっぱりだして、神妙な顔でわかったような話をし始める。
それがまるで年中行事のように繰り返されるのがちょっと聞いてられなくて、毎年その日は東北にいるのかもしれない。
決して忘れられない記憶で埋まった6年間。
すべてが黄土色の泥と瓦礫に覆われ、どこが道なのか家なのかわからなくなった町の風景。
ヘドロに埋もれ、粉々に壊れ、もとが何だったのか判別がつかない無数の瓦礫の欠片。
何日も燃え続け、いちめん完全に焼け落ちた町の夜の深い暗闇。
乾燥したヘドロの粉塵が風に舞い、空気に満ちる独特のにおい。
見渡す限り一軒も家がなくなり、家や商店の土台と複雑な形にねじ曲げられたガードレールだけが続く町のメインストリート。
海がみえない場所にぽつんと打ち上げられた漁船。
ぐしゃぐしゃに変形した膨大な数のクルマがうずたかく積み上げられた山。
献花台に並んだ花とお供え物と線香の匂い。
海底に沈んだクルマや漁船から漏れる燃料で薄黄色く濁った波。
気丈に明るく元気に振る舞い続けた地元の方が初めて見せた涙。
1年目のその時間、サイレンを聴きながら、海岸で魚の身を切って海鳥にあげていた人。
倒壊した自宅をかたづけたくても、線量が高くて近づけないと話してくれた人。
津波に破壊された家の綺麗なカーテンをはためかせていた5月の風。
無人の街を我が物顔で飛び回っていたカラスの大群とやかましいほどのカエルの大合唱。
言葉もなくて、ただ息をのむしかなくて、涙も出ないほど悲しいという感情を、生まれて初めて知った。
そこで出会ったいろんな人たちとの出会い。別れ。
うれしかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと。
一生の思い出もあれば、一生後悔し続けるような出来事もあった。
全部がいまの私に確実につながっている。
なにがわからなくても、それだけははっきりいえる。
だからずっとこの先も、6年前のあの日を出発点に、生きていくのだと思う。
それ以外の道は、たぶんない。
気仙沼市と大島を結ぶ鶴亀大橋の工事に使用されるクレーン船。30メートル?40メートル?とにかく大きい。気仙沼港にて。
復興支援レポート
2012年のその日をたまたま当地で過ごす機会があって、それから毎年、この日はここに来ている。
今年で5回目。もう習慣のようなものだ。正直、その日に別の場所にいる自分がうまく想像できない。
6年前、私は東京にいて地震を体験した。直後に報道で東北地方の被害を目にして、都内でも続く余震に怯えながら、できることが何かないか探し始めたあのときから、その災害はずっと私の隣にある。
あの災害と、その後の体験は、私をずいぶん遠くまで連れてきてしまった。その道はもう二度と引き返せないところまで来た。
だからたぶん、私の中であの災害が“整理”されて“過去”のものになることは、きっとない。
あるとしても、ずいぶん先の話だろうと思う。いまはまだ、うまく想像できないくらい。
それでも世の中はどんどん先に進んでいく。
あれだけの大災害も、無数の悲劇も不条理も、なかったことにしてしまいたいかのような空気。
誰もが被災した地域とそこで苦しんでいる人たちのことを思い、できることがないか考えたあのころのことはどんどん置き去りになっていく。
それはそれでいいのかもしれない。世の中は前に進むものだから。いつまでも同じところには立ち止まってはいられないから。
でもほんとうは、人が思うほど物事は何もかもがそう都合良くは進まない。“復興”という言葉に追いつめられ、苦しめられている人だってたくさんいる。なのに、彼らのことは誰も見向きもしない。
その一方で、3月11日が近づけば、メディアは思い出したようにあの日の話題をひっぱりだして、神妙な顔でわかったような話をし始める。
それがまるで年中行事のように繰り返されるのがちょっと聞いてられなくて、毎年その日は東北にいるのかもしれない。
決して忘れられない記憶で埋まった6年間。
すべてが黄土色の泥と瓦礫に覆われ、どこが道なのか家なのかわからなくなった町の風景。
ヘドロに埋もれ、粉々に壊れ、もとが何だったのか判別がつかない無数の瓦礫の欠片。
何日も燃え続け、いちめん完全に焼け落ちた町の夜の深い暗闇。
乾燥したヘドロの粉塵が風に舞い、空気に満ちる独特のにおい。
見渡す限り一軒も家がなくなり、家や商店の土台と複雑な形にねじ曲げられたガードレールだけが続く町のメインストリート。
海がみえない場所にぽつんと打ち上げられた漁船。
ぐしゃぐしゃに変形した膨大な数のクルマがうずたかく積み上げられた山。
献花台に並んだ花とお供え物と線香の匂い。
海底に沈んだクルマや漁船から漏れる燃料で薄黄色く濁った波。
気丈に明るく元気に振る舞い続けた地元の方が初めて見せた涙。
1年目のその時間、サイレンを聴きながら、海岸で魚の身を切って海鳥にあげていた人。
倒壊した自宅をかたづけたくても、線量が高くて近づけないと話してくれた人。
津波に破壊された家の綺麗なカーテンをはためかせていた5月の風。
無人の街を我が物顔で飛び回っていたカラスの大群とやかましいほどのカエルの大合唱。
言葉もなくて、ただ息をのむしかなくて、涙も出ないほど悲しいという感情を、生まれて初めて知った。
そこで出会ったいろんな人たちとの出会い。別れ。
うれしかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと。
一生の思い出もあれば、一生後悔し続けるような出来事もあった。
全部がいまの私に確実につながっている。
なにがわからなくても、それだけははっきりいえる。
だからずっとこの先も、6年前のあの日を出発点に、生きていくのだと思う。
それ以外の道は、たぶんない。
気仙沼市と大島を結ぶ鶴亀大橋の工事に使用されるクレーン船。30メートル?40メートル?とにかく大きい。気仙沼港にて。
復興支援レポート
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます